海外のオーケストラの来日公演というのをはじめてきいた。サイモン・ラトルをおがむのもはじめてだ。指揮者としての特徴がどうというのは正直わかっていない。けれどぼくの生きた人生の半分以上の期間でベルリン・フィルの導き手だったことはおぼえているし、まだこの種の音楽を聴きはじめたばかりのころに、ラトルの名前がはいった録音はきっといいものにちがいないというブランドにぼくはみなしていた。

この日の演目は、バートウィッスルの「サイモンへの贈り物2018」と、マーラーの「交響曲第7番」の休憩なし二本立て。バイエルン放送交響楽団は、この一週間ほどのあいだ関東と関西でツアーをしていたよう。ぼくはNHKの広告で来日を知ったからNHKホールでの演目しか知らずにいた。よその会場ではブルックナーのプログラムとブラームスのプログラムがあったらしい。もっとも、ぜんぶをみるにはチケットが高額すぎるわけで、ひとつをえらんで聴きにこられたとおもえば損ということもない。

バートウィッスル「サイモンへの贈り物」はラトルが献呈された短い管楽曲で、プログラムはこれをファンファーレという言葉で説明していた。オーケストラは弦楽隊をすっぽり不在にしたまま指揮者を迎えいれた。弦の出番はないということだ。管楽隊と指揮者のあいだに空席がひろがる様子ははじめてみる光景で、まるで非武装地帯をはさんでにらみあうような独特の緊張があった。音楽は不定形のうごめきを含みながら、鐘の音がさわやかに総括して平穏に解決したととれる音楽だった。自分のための音楽のような作品であっても、楽譜帳をもちこんで振る、そういう様子がみえた。

マーラー「交響曲第7番」は、最終楽章がいいものだった。ラトルはスコアを持ち込まずに振っていた。重厚長大な作品を受け止めきることができなくて、最後の祝祭的なムードだけがすべてを解決して、それまでのプロセスは「なかったこと」になってしまったみたいな感想だけを残してしまった。眼の前で音楽が繰り広げられているあいだにはあれこれの印象が去来していたはずなのだけれど、それらを書き留める休憩があたえられないまま、最終楽章の爆演が繊細な機微を吹き飛ばしてしまった。そうともいえる。

そういってしまうと喪失の気配がある。とはいえ、喪失や否定の消極的な気分の持続を不意に断ち切ってあらわれる、躁的な歓喜にみちた第五楽章のつよい肯定の感覚。それはその導入がどれだけそこにいたるプロセスをなかったことのようにして、異なる色彩をはなちながら出現するごわごわした耳触りのものであろうと、まったく気にかけないようだ。

くすぶっては嘆いて、酒場でのみ癒やされる安い魂があったとする。その魂があるとき前触れもなく全宇宙が自分の手のなかにおさまっていることを発見する、その悟りの瞬間の圧倒的な至福と歓喜。それはいくら根拠にとぼしくて、過去とも未来とも断絶しているようであってもかまわない。断絶によってこそ高みにいたることができることを伝えて、たしかに勇敢で心強い主張のようだ。 主観のなかにおいてのみ救われることができれば、客観がなにをどれほどいおうと、ひとは救われているに違いないのだ。神の不在にあって、ひとが神にとってかわって、自分ひとりを救済する。そういう類の個人的な勝利をマーラーは描いたのだ、というように聴こえた。歓喜のために葛藤はかならずしも要求されないのだとも。ほんとうに勝利したかどうかはこの際どうでもいいことであるとも。