NHKホールにN響と首席指揮者ルイージのプログラムを聴きにいった。ドイツ、後期ロマン派の爛熟にいたる経緯をみせる演目というようなことがパフォーマンス解説に述べられていた。
まずワグナーの『トリスタンとイゾルデ』より「前奏曲と愛の死」、それからシュトラウスの歌曲のオムニバスで「ばらの花輪」「なつかしいおもかげ」「森の喜び」「心安らかに」「あすの朝」の五本立て。作品番号ではそれぞれこうだ。
- Op. 36-1
- Op. 48-1
- Op. 49-1
- Op. 39-4
- Op. 27-4
ここまでが前半で、後半にはシェーンベルクの交響詩『ペレアスとメリザンド』が控える。おなじ解説によると、この曲をもってシェーンベルクは調性音楽を放棄したといえるが、言い換えるとこの曲までは後期ロマン派の系譜に連ねることができると。
ワグナーの「前奏曲と愛の死」は、いかにもねっとりした導入に聴こえたものだが、持続する情感をねっとりさせない意志があったようにおもわれた。禁欲的ではあるけれども、つとめて厳格とまでもいかない。運命の愛にまつわる想起が性と官能をひきこむのを拒んで、プラトニックな美しさだけを主張するように聴こえたものだった。感情的に没入させる演奏ではないことが物足りない向きには物足りないかもしれないにせよ、健康的な音楽と聴こえた。拍の頭が合わないところがいくつかあったようだったのは、イージーなミスにしてはこのあとの演目でも繰り返し再現するものであったから、きっとこちらがとらえ間違えたのだということにしておくことにした。
シュトラウスの歌曲集もロマンチックな主題に連なって甘美だけれど、情熱と破滅の交換というたぐいのものではもとよりない。荒々しさははじめからない。素朴な愛情にだけみちている。みずからの手のうちにないものが、失われたとか奪われたとか、そういうさもしい心理をもたない。わたしたちのちいさな世界は至福につつまれていつもうつくしい。幸福は探さなくともそこらじゅうにみちている。そんな感興を素朴に歌わせる。
作曲当時からすでに古くさいスタイルだっただろうかと想像した。刺激的な流行には背を向けた芸術。あとは没落するばかりの有閑階級のための趣味といえばそれまで。しかし、古い権威が破滅することを恐れない余裕こそ晴れやかなものだ。いつもせかせかしてまずしい心。その心に不思議ときく漢方薬のような歌。
シュトラウスを歌ったソプラノ・ソロはクリスティアーネ・カルクさん。ノースリーブのトップスは複雑な海の色をしていて、おおきく上品なスカートは黄金色ながらぎらぎらした輝きのない、なかなかみない色だった。コンサートマスターのバイオリン・ソロと旋律をからませる達人技が至福だった。
シェーンベルク『ペレアスとメリザンド』は、とくにきょうのために予習をした。いくつかの音型は音符を書いておぼえて、聞き逃さないように心がけた。緻密な音楽がどう構築されているかに耳をかたむけた。あちらこちらに飛び交う意味的断片を拾い集めながら聴いて、たしかにその高度な構築性は尋常でないと知った。それと同時に、どうしようもなく息苦しい音楽だとおもった。
シェーンベルクは、ワグナーが発明した技術をつかって濃密な人間ドラマの探求をおしひろげようとした。それが『ペレアスとメリザンド』だった。ワグナーの技術が革新的だったことはまちがいない。その技術を全面化しようとするシェーンベルクの試みも本筋のものだ。しかしながら、技術のポテンシャルを徹底的に搾りきったら、そこにはもはや進歩も前衛もみられなくて、じゅくじゅくと膿んだ退廃だけがただあまった。解決した問題が自由にするよりも、増えた問題の不自由をハイライトした。そんな始末となった。
帰り道、原宿駅の改札で、人間たちは巨大な団子になってうごめいた。自動改札は渋滞を解消する機能を失敗させていて、かえって渋滞をつくりだす主要因になっていた。ワグナーが広げた地平を広げて、シェーンベルクがその限界に触ったこと。自動改札機のシステムは交通利便を広げたが、都市の過剰性は利便を追い越して膨張して、それは便利というよりいまでは所与の、しかも限界のシステムとなっていること。似ているとおもった。システムが限界に達していることに気づいてはじめて、最初のビジョンがどれだけ理想主義と情熱にあふれた美しいものだったかと知らされることも。システム末期のありさまが、おなじシステムに則っていながらどれだけグロテスクに過剰な解釈を押し付けられるかも。
シェーンベルクは壮大な伽藍をたったひとりでつくりあげた。達成と狂気の見分けがつかないところまでみずからを前衛に押し出した。伽藍の建立がなにかを意味する時代はもはや過ぎたことをその伽藍自身が述べているとはじめに気づいたのもまた、シェーンベルクだったか。そのあとも彼は次の息苦しい前衛に転戦したようにみえる。それは消費第一主義の世界でヒーローになりたいと望んだ哀れな像にもみえてしまう。きょうのぼくはそれよりも、滅ぼすまでもなく滅んでゆく古い権威と形式のなかでまどろんだようにみえるシュトラウスのほうに愛着をもっている。