金曜日の夜にサントリーホールの演奏会にいった。N響の定期演奏会で、ファビオ・ルイージが指揮、ネルソン・ゲルナーがピアノのソリスト役だ。

そうだ、もう出かけないと、とあわてぎみにおもう時間まで集中力を動員したあとで、無心になってバイクで六本木まで走っていって、そのままホールにはいってしまうと電波の妨害装置があって外の世界とはさっぱり縁が切れる。それで黙って音楽をきく、身体を揺らさず、咳もこらえて。それは不自由といえば不自由だけど、無限の自由があるよりもこっちのほうがいい。そういうことをよくかんがえる。

プログラムは、スメタナの『売られた花嫁』序曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番、休憩をはさんだあとにムソルグスキー作ラヴェル編の、展覧会の絵。リラックスして座っていた。あたまはすっかり空っぽだった。気持ちいい椅子にあっても眠気はない。眠気はないけど、目をみひらいて凝視するほどに全身で集中するほと血走ってもいない。エゴがほどけてあいまいになる。ぼんやりしているだけ、それがもっとも豊かな時間、というようであった。

こうしてだんだん集中力を失っていく、落ち着きがなくなるのが若い集中力の欠如だとして、落ち着いているだけでなにもしないというのが年をとることの意味なのかもしれない。小津安二郎の東京物語の幕切れのところで、ひろい家にひとりで座って笠智衆が遠くをみている。景色が溶けて自分というものがなくなる。そのあたりに、人間のいくことのできるもっとも遠く、もっともありふれた無があるようだ。