盛岡フェザンは盛岡駅にくっついた駅ビル。日中は盛岡市先人記念館の学芸員室でボランティアの作業をして、日が暮れて駅にもどってお茶を飲もうとしたときにちょうどミニコンサートの告知をみつけた。
クラリネットにダビット・ヤジンスキーさん、ファゴットに水野一英さん、オーボエに高橋鐘汰さん。こういうメンバーだった。
三十分の枠のなかで、モーツァルト、イベール、ピアソラ、バッハと選んで聞かせてもらった。デパートのホールだから雑音を消すことはできないはずなのだけれど、演奏がはじまると環境音はいっきょに後景にしりぞいて、高雅な気分があらわれた。
モーツァルトの「ディベルティメント第一番」と紹介されて、プログラムにもそう記載されている作品は、正確には「バセットホルン三重奏のための5つのディベルティメント (K. 439b) 」より「第一番」ということらしい。単に「ディベルティメント第一番」とストリーミングサービスで探すと弦楽のための K. 136 がでてきてしまうからむずかしかったけど、何日か迷いながら探し当てられたときには取り替えのきかないうれしさがあった。
イベールは「木管三重奏のための5つの小品 (1935) 」で、これはひとつ前の「ディベルティメント」がもともと「バセットホルン三重奏」のために書かれたのを、オーボエ、クラリネット、ファゴットに編曲したのとはことなって、もともとこの3つの楽器のために書かれた作品。その編制のことをフランス語で「トリオ・ダンシュ」といい、ここで「アンシュ」は木管楽器がそれを振動させて鳴るためのリード (reed) のことというお話をオーボエ高橋さんがなさった。
ピアソラは「ブエノスアイレスの四季 (1970) 」より「ブエノスアイレスの春」で、意表を突く音の出しかたが見え隠れして、ハードバップ風の特殊奏法さえ聞こえもした。モーツァルトに続けてイベールをきいたときに、一世紀分の時間がながれただけあってカラフルな洒脱が響いているようにおもったものだったけれど、イベールに続けてピアソラをきくと、その半世紀のあいだに起こった破壊と革新を生々しくみせられているようだった。
アンコールとして、バッハの BWV 147 より「主よ、人の望みの喜びよ」で、これはなんとなく慎ましい年末の気分によくなじんで、ひとつの終止をかざってふさわしくおもった。みっつの単音だけからなる音の広がりのどれほど豊かであること、バッハはいくらでも偉大であること。素朴に感情移入してしまって、演奏がおわったとき、いま誰かと話したらその素朴な幸福のために泣いてしまいそうだとおもった。
パートナーは年末のしごとをアメリカでなかば終わらせてなかば持ち帰ってきて、忙しいなかでも東松島の体験プログラムに付き合ってくれていた。そのまま盛岡で仕事があるというときに、ボランティアに招いてくれて、めずらしい経験をさせてくれた。ひと仕事おわってお茶を飲んだあとにゆっくり音楽をきいて、聞き終わったらきょうはいい日でしたねと話せることをすばらしい幸福とおもった。