箱根登山鉄道の宮ノ下駅にある「四季の湯座敷 武蔵野別館」という温泉宿に一泊した。
年明けのはじめの平日二日を休みにした。パートナーがカリフォルニアに戻って新年の仕事をはじめる前に精一杯くつろごうというもの。
箱根をおとずれるのははじめてで、土地勘も宿のこころあたりもなかった。インターネットで調べて予約した宿にとびこんで、ずいぶんよかったとおもう。いくつかの気に入っていたポイントが期待通りに作用して、がっかりすることがなかった。気に入っていたというのはこういうものだ。広い部屋で気楽に過ごせそうなこと。湯の種類がいくつもあること。過剰に安価でないこと。過剰に高価でないこと。ウェブサイトが没個性的でないこと1。
チェックインの日、雨が降った。都内はぱらぱら、箱根の山はしとしと降った。ロマンスカーのおおきな窓から曇った都会の景色のバリエーションをながめながら、町田、海老名、小田原と走って箱根湯本で降りた。傘をさして箱根湯本の小道をあるいた。あたたかい甘酒を飲んでかまぼこを食べた。
登山電車に乗り継いだ。何度かにわけて停車しては進行方向を変えながら山をのぼった。スイスとイタリアにまたがる山岳地帯を走る古い鉄道を参考にして百年前くらいに輸入した鉄道設計らしい。次の日に山くだりのために再乗車して、雨上がりの涼しい斜面をゆっくりすべっていく素晴らしい景色をみた。はじめの日には降雨のうえ日も暮れていて、山のぼりの景色がよくみえなかったことがそのときによくわかった。
宮ノ下駅にマイクロバスの送迎があった。五分くらい雨の道を山のうえの宿まで運ばれて、つくとさっそく部屋に通された。六階建ての六階の、露草という部屋。ひろい座敷のほかに、次の間と内風呂がついている。
食事のまえにみじかく浴場をながめにいって、誰もいない大風呂で簡単に流したあと、部屋へもどる渡りにぽつんとひとつ置かれた椅子に目をうばわれた。座面は低くひろく、櫛状のゆるやかに末広がりとなった背もたれがそのままのびて短い足をはやしたようになっている。芸術的な意匠とみて、しかも美術館とちがって「触らないでください」など野暮なことをいわないから、おもわず腰掛けたら、山の静かさがせまってくるようであった。
静かさはもともとそこにあった。静かな心だけがその静かさをきく。心を静める椅子に座ったのだ。まれな情感だった。その椅子は名前も知らなかったが、きっと名のある意匠にちがいない。やがてインターネットで調べて知った。豊口克平(とよぐち・かつへい)さんの「スポークチェア2」という。豊口さんは明治末期の秋田市の生まれ。この「スポークチェア」を含む主要な作品はみな、五十を過ぎてからの手になるようだ。
食事は部屋にてもてなされた。正式の繊細な料理で、いちいち芸術的な工夫があるようだった。主菜に和牛と伊勢海老を出してもらって、それも見事ではあるのだけれど、周囲にあってそれを引き立てる細やかな料理こそまぶしいものだった。日本語を母語にしない若いかたが熱心に給仕に立ち回ってくださった。食後には座敷をあけて次の間で歓談するあいだに、御膳をしずかに片付けて布団を敷いてもらった。正式の温泉宿ではそれがあたりまえかもしれないけれども、あまりないぜいたくをさせてもらってありがたいものとおもった。
予約式の露天風呂があって、前もって伝えられた時間にロビーをおとずれたら、鍵をわたされて隠し扉に案内された。草履を履いて傘をさして、懐中電灯を照らしながら濡れてすべりそうな細道を慎重にすすんださきに、ぽつんとちいさな離れが立っていて、素朴な浴槽が熱心に湯気をはいているのがみえた。湯はそのまま捨てているからここでは泡を流さないようにという注意があったことをあらためて得心するつくりだった。しずかな雨が屋根と木を打つ音をやぶって登山電車が走ってくる音がして、眼の前の斜面のしたをすべっていくのがみえた。まったく異郷のおもむきだった。
部屋にある内風呂は、はじめの日の夜ふけにいちどあびて、次の朝はやくにもういちど、そして朝食をふたたび部屋の座敷で供してもらったあと、チェックアウトの前にもういちどつかった。この浴槽は掘り下げ式になっていて、土のなかに埋まって外をみるような、独特の景色をあたえた。はじめの夜には、眼の前の暗闇から雨がやわらかく叩く音だけが聞こえてやすらいで、つぎの朝には暗闇だった空間がきれいな緑の林の斜面になっているのを目でみてなごんだ。
あっというまの一泊だけれどよく堪能した一泊はこうして終わった。
一夜明けたら雨はあがって日射しがでていて、マイクロバスでやってきた道をこんどは徒歩でくだっていった。歩道のない道を気をつけてとおった先によく繁盛するちいさなベーカリーがあった。やがてその隣にパトカーがつけて、警官をひとりおろして、怪しいことがあるみたいな動きをしていた。ヘリコプターが山でだれかを探すみたいに飛んでいた。
小田原の港の食堂をめざした。宮ノ下駅で箱根と小田原観光のパンフレットがおいてあって、それを眺めてから登山電車で山をおりた。小田原のひとつ手前の箱根板橋駅で降りた。晴れた海に向かって流れる川沿いを歩いた。川で遊ぶときは気をつけましょう、と看板がでているのをみて、ここだと川遊びは禁止されていないんだね、とすこしエキゾチックな気分になったが、よくみるとそこまできれいな川というのでもない。
午後の漁港は人気はすくない。それでいて、市場のなかにある食堂はにぎわっている。スポーツをやっているんだろう、食べ盛りとみえる少年をふくむ家族がある。吊るしのスーツをまとって恰幅のいいおじさんがたがある。おひとりさまでおとずれているかたもみえる。壁をみやると、昭和27年あたりのある日の歴史的な大漁の記念写真があって、三万尾が捕れたといって、大網のまわりを港のひとびとが囲む様子が写されていた。壁掛け時計が止まっていた。その下に「故障中」と手書きの張り紙がしていて、いつから壊れていようとそのごときは誰も気にしないようだった。それでもおおにぎわいの食堂なのだ。
その食堂で刺身定食をたのんだ。お刺身のほかに、小ぶりのアジフライがふたつ。あら汁、ひじき煮、柴漬け、しらすおろし。大盛りのごはん。たっぷりのお刺身はいずれもねっとりとした肉感をたもっている。アジフライは筋肉質でさっぱりした感じの、よくできた天ぷらみたいなフライで、こんなによくできた魚の揚げ物はここでしか食べたことがないと思い出すにおおいに値するすばらしい料理だった。
港の見物を食後にしようとして、海風が強くて引き上げた。小田原城まであるいた。天守復興の軌跡というようなパネル展示があって、戦後の一時期には天守跡のところに観覧車をおいて客を集めていたというのを知る。遊園地を立てたり、遊園地をどかして天守を立て直したり、おおらかな時代にはおおらかなりの勢いがあって、喜劇のまぶしさがあるようだ。
小田原駅からロマンスカーに乗って、すっかり眠りながら新宿駅にもどると、いつもの騒々しさだ。