バイクにドライブレコーダーをつけたほうがいいよなあ、煽られたりするし。そうおもってひとつ買って載せてみようとするも、調べるほどに面倒きわまりない様子をみて、いよいよ載せない心づもりを固めた。このようにいまは考えましたというのを並べてみる。
まず価格。ポンと出すには高い。カメラ本体を手に入れるのに数万円。取付工事を依頼すればさらにその倍近くともなる。電気工事なら自分で勉強してやればいいかもとおもったとしても、そもそもカメラを高価とおもってしまう。手に入れてみるまでいまいち強みのわからないカメラで予算をどか食いされては、プロの技術者にとって妥当な工賃はきちんとお支払いしたいとおもっても、初期費用が膨らみすぎるのだ。スモールスタートができないこと、これは惜しくも痛々しい。
電源の取り出しかた、ケーブルの取り回しかたについて実用的なヒントを出してくれているひとがアマゾンにレビューを残しているのをみた1。いわく、長期的なメンテナンス性を工夫して取り付けして、車両の乗り換えもつつがなくこなしていたが、いざ事故に巻き込まれたときに記憶媒体が故障して使い物にならなかったと。それはあんまりだとおもった。
それはあんまりだとおもったあとに、しかし映像がないことがただちに立場を不利にすることもないだろうと気付かされた。映像があって過失割合のジャッジにいくらかヒントを与えるとしても、基本的に事故の過失は分け合うもののはず。映像がないことを根拠にして 100% の過失を背負わされることはまずないでしょう。
事故が怖くて出かけられなくなるのでは本末転倒だ。だからぼくたちは保険にはいるし、危険に備えて安全運転する。それはあたりまえのこととされる。ドライブレコーダーは運転席の景色をガラリと変えるものではない。ドライブレコーダーは法廷の景色をガラリと変えるものではない。多かれ少なかれこちらも加害者にいつでもなりうるわけで、たったひとつのテクノロジーが「銀の弾丸」みたいに利益を満載してやってくることはきっとない。
事故に備える保険は自賠責と任意保険の二段構えになっている。特に自賠責は非営利の仕組みとして法制度化されているようだ。他方、録画があっても犯人に逃げられたら助けにはならない。録画があっても保険に未加入だったら助けにはならない。最後に助けになるのは録画による保険よりも、証券にのっとった伝統的な保険、それから弁護士、それに尽きるんじゃないか。ぼくはそうおもった。
ドライブレコーダーは、それを設置しているという気休め、あるいは周囲に向けた牽制手段を売る商売かという印象をぼくは深めてしまった。エントリー価格が高額なわりにたいした保証をあたえてくれはしない。それはベンチャービジネスにありがちな特徴だとおもう。保険会社がクリーンな商売に徹しているとは思わないが、高額アクセサリのマーケットよりは保険システムのほうがまだ頼りがいがありそうだ。
せいぜい事故を傍観する車が「こんな危険なドライバーがいました」といってインターネットに映像をさらしてはアテンションを集めるために利用されているような印象がある。それはぼくのもとめる価値とは異なりそうだ。どうせ撮影ツールにおさまるなら、まともなアクションカメラを使ったほうがよっぽどたのしみが増えそうだ。あえてドラレコをつけさせたがるとすれば、そのやりかたこそ恐怖心を煽ってつけこむマーケティングとみえてしまう。
録画によって万が一の事故に備えたいという気持ちはわかる。事故にたいして小さく始められる自衛手段があれば、ぼくは望んで飛びつく。しかしドライブレコーダーは初期費用の大きさでぼくを萎縮させた。マネーを注いでラグジュアリーマシンを作りたいという欲望はない。むしろできるだけ頭と身体でコントロールできる範疇にマシンをつなぎとめておきたい。コンピュータにマシンを支配させたくない。
事故ほど怖いものはない。ドラレコは事故を防がない。事故は防げないと覚悟するから、運転手はみんな自賠責と任意保険とにはいることになっている。そのときドラレコがあたえる価値とはなにか? 監視による安心という欲望のはけ口だとぼくはおもう。
もうすこし初期費用が下がれば使ってみたいとおもいもする。あるいは電源とポータビリティの問題が解決されるのでもいい。重々しくはなってほしくない。眺めて満足するためのマシンがほしいのではない。きびきび動く実用性だけあればいい。あれもこれも機材を揃えないとだめだという他人の欲望を欲望させようとしないで、そっとしておいてくれたらいい。