文京シビックホールでピアノのリサイタルをきく。

仲道郁代さんはひとりステージにあがって、ひとつ小品を弾き終えるごとにみずからマイクをとってお話をされた。ステージには黒光りするモダン楽器が下手に、ベッコウ色で木目の装飾がよくみえるピリオド楽器が上手にある。プレイエルの1842年のピアノは仲道さんの所有だという。

仲道さんは言葉をよく選んで話した。鉄の硬さが強力な張力を釣り合わせているモダンピアノが豊かな響きを鳴らすように設計されていること。それに比べて、弦が素直に平行に貼られたプレイエルは音量を出さない代わりに声部をよく分離させること。鍵盤の沈む深さが違うこと。弦の幅が違うから、運指の感覚も異なること。調音さえ異なってプレイエルのほうが 12Hz 低いこと。芸術家が自分の声を自分のやりかたで検討しながら話すやりかたの自然さはすぐれて好ましかった。

プログラムはこうだった。おおきくいって、前半はプレイエルを聴かせて、後半はモダンピアノを聴かせる。

冒頭、ドビュッシー「月の光」をまずモダンピアノで弾ききったあと、プレイエルで同じ作品をもういちど弾く。すると音量がぐっと下がって、これではこのホールでは聴こえないとさえおもうところだった。しかし小さな音に耳がピントを合わせるようになると、タッチのニュアンスまですっかりよく聴こえる。かえってよく吟味することを促す音がする。

ひるがえってモダンピアノに座り替えると、人工的に増幅された響きが音の粒をすっかり殺してしまって、速いパッセージがすべて前衛のトーンクラスターのようにさえ聴こえる。音像はほとんど結ばないといってもいい。ディストーションがテクニックを無効化しているようだった。仲道さんはプレイエルを弾いて、いわずもがなのテクニックをすでにみせているが、同じピアニストが弾いているとはおもえない放埒さが聴こえた。

類推した。エレキギターを徹底的に歪ませて高い音楽性を維持するのはむずかしい。最大音をいくら引き上げても、最小音をふさわしい解像度で鳴らすことができなければ、表現力の拡張には遠い。声高とは虚栄の別名であるか。

もちろん、プレイエルに比較してモダンピアノがどれだけうぬぼれた楽器か、という趣向のプログラムではなかった。もっと素直な聞きくらべの試みであったはずだ。とはいえ、ピリオド・ピアノの生の音色をはじめて聴く耳にとってその音はあまりにも繊細だった。

先入観がぼくのなかに強靭であったともいえる。モダンピアノこそ繊細な楽器であると。そうでもないようだった。細くやわらかい音でその先入観を絡め取るプレイエルのやりかたは、合気道のいなす技が相手を転がすみたいに転がして、ぼくはどうして転ばさせられたかもわからないから感服せずにはいられない。

アンコールに小品を弾くにあたって、どちらの楽器を聴きたいでしょうかと仲道さんは客席にたずねて、多数決は自明な差でもってプレイエルを選んだ。現代のホールは19世紀のサロンよりはずいぶん広いはずだけれども、かならずしもモダンピアノでないと響かすことができないわけでないというときに、ひとはわざわざモダンピアノを開発して、よりホールにふさわしいのはこちらと標準化した。騒音に狂わされた集団が聞く耳をなくしたのは昨今のことではないらしい。