土曜日の午後に新国立劇場でオペラをみた。ワグナーの『さまよえるオランダ人』で、マティアス・フォン・シュテークマンによる演出は過去の上演でも評判は上等、とのこと。

全編上演を観るのははじめてだった。すばらしい、すばらしい劇だった。心の抑圧ははがれ、緊張はほどけて、頬は濡れずにおかなかった。アリアも重唱も、合唱団も。演出はいたずらな独創性に走らずに、おのおのの苦悶を引き立てていた。

あまり期待していなかったことは事実だと告白する。あらすじを斜め読みした先入観で、乙女の積極的な献身が弱い男を救済する話とあたりをつけて、ワグナーの若書きという印象に合わせて、ナイーブな荒削りさがあるとみなしていた。実際、悪く読もうとおもえば悪く読めるところはある。ところがじっくりとみると、そこではそうとしか生きることのできない不器用な性格がある。不器用なりに激しく脈打って、駆け引きや大義名分のためでなく、魂が満たされることを熱く求めている。

あらすじはこうだ。永遠にさまようことを呪いによって宿命付けられたオランダ人(エフゲニー・ニキティン)は、七年にいちどだけ誠実な愛によって救済をうける機会をあたえられている。ダーラント(松位浩)は嵐につかまった船乗りで、オランダ人の船に遭遇する。彼のもつ財宝に目がくらんで、娘との縁談をもちかける。オランダ人にとっては願ってもいないことである。

その娘、ゼンタ(エリザベート・ストリッド)は、壁にかかった肖像画に心を奪われている。伝説の幽霊船の船長を描いた肖像画だ。その伝説を歌ったバラッドにも夢中になっていて、マリー(金子美香)にはあきれられている。永遠の苦しみのなかで、愛による救済をひたすら待つ船長。彼の苦しみを自分が救いたいと夢想している。

エリック(ジョナサン・ストートン)は貧しいなりにゼンタに恋慕しているが、その感情の表しかたは「歌なんか歌うな」「絵なんかみるな」「おれの苦しみはどうでもいいのか」となかなかアグレッシブだ。ダーラントがゼンタに縁談を持ち込もうとしていることを知って狼狽している。

ゼンタのもとへ、ダーラントがオランダ人をともなってやってくる。ふたりの恋人たちは雷に打たれたように沈黙する。気遣ってダーラントはふたりきりの時間をつくって、結婚相手にふさわしいかぜひ見極めてくれと助言して去る。ゼンタは肖像画の人物が目の前にいて、そこから救いたいと願ってきた苦しみのなかにある船長に貞淑を誓う。オランダ人はおもわず救済を期待する。

エリックは、ダーラントが決めた相手との結婚を即断しようとするゼンタを、例のアグレッシブさでなじる。ゼンタが「そうだったかしら」と疑っているのをものともしないで「おまえはおれに愛を誓ったじゃないか」「あれは嘘だったんだな、そうなんだな」とまくしたてる。

オランダ人はそれを物陰にいてきいていた。ゼンタの愛情は受けられないと辞する。なぜなら私は幽霊船の船長だから。呪われた身分である私にとって、あなたの愛は見合わない。愛を強いて地獄堕ちの巻き添えにするよりも、ひとりで呪いを受け続けよう。そのときゼンタは、オランダ人にもエリックにも背いて、それが呪いを解くと信じる行為のために身をなげうつのだった。

おもうに、まだみないひとの苦しみに心を痛めるゼンタのたくましい想像力は、俗世にあって抑圧された心をなぐさめるための代償のようだ。財宝に目がくらんで娘とそれを交換しようとする父がいる。社交性にとぼしく、物心両面において貧しい、ストーカー気質で攻撃性もある男性がいて、求愛から逃れることがむずかしい。これらはゼンタにかけられた呪いのようである。その呪いのせいで、およそ俗世において幸福追求に期待できないときに、夢と伝説の世界に聖性を見出そうとするのは自然なことであるようだ。そしてその夢が目の前にあらわれたとき、無私の献身でオランダ人の呪いを解こうと願う彼女のおこないは、自分の呪われた運命を自分のちからで変えるための衝動のたまものとみえた。

あるひとがもうひとりを救おうと必死になるとき、救おうとするもの自身もまた救われるということはあるとぼくは信じる。救いをもとめるひとは世に満ちているときに、救いに値しないと身をひくことのできる、もっとも強いようで弱いものを救いたいと願う心のことをぼくは知っている気がする。

ぼくはおもわず、パートナーがいまカリフォルニアにいて、憂鬱に落ちこまないように闘っていることをかんがえた。山火事が街を壊して、新大統領が世の中を反動化させて、先のみえない心の不安といつも対峙している。苦しみに苦しみが追い打ちをかけるさまを、オランダ人の境遇に重ねた。なりふり構わず自己愛を追求することの決してできない孤独な不器用さが、ぼくのよく知るパートナーの姿に重なって、その呪いを解きたいと願うぼく自身をゼンタに重ねてしまったのだ。

それと同時にぼくは、一年半前の夏の、呪いにかけられたようにすべての力を奪われてとことん沈んでいたころの自分の姿をやはりオランダ人の姿に重ねて、そこから立ちなおるのに力を貸してくれたパートナーの姿にゼンタを重ねてみる、ということをする。そうすることで、救うことと救われることの満足をそれぞれ見つめ直している。

第二幕の最終部、ゼンタは喜びの踊りを踊ってひとり地面に身を投げ出す。それは夢のオランダ人があらわれて、これからは彼のために生きられることを知ったことの喜びとおもう。新しい生きがいのために踊るこころを抑えられない。

第三幕の最終部、オランダ人は霧の向こうにゼンタが遠ざかっていくのを、この世のものならざるものをみる衝撃の目でみつめたあと、やはり地面に身を投げ出す。さきほどのゼンタの心と重ねることを演出が意図していた。呪われた自分を救うひとがこの世にひとりあることは、呪いが解けることよりもずっと重要なことだった。

あらすじのことを「ゼンタは死んでオランダ人の呪いが解けた」とするのがワグナーのオリジナルの構想だったとして、そのままただ古めかしいだけの話をみせない。この日の演出の白眉は、オランダ人の呪いが解けていなくとも、ゼンタが命を落とさなくとも、ふたりはふたりとも、自分なりのやりかたで救済を手に入れられたと読ませるところだとおもう。ひとりの究極の自己犠牲がもうひとりを救う物語ではなくて、救うも救われるも表裏一体だということを示唆する。利他のためにこそひとは生きて、利他のためにこそ生かされている。そのメッセージが気に入っている。

オランダ人役のエフゲニー・ニキティンさんは、この日が初日。公演はこの日が三日目なのだけれど、プレミア当日に不測の降板となって、河野鉄平さんが代役に立ったと発表をみていた。翌公演も同様。この日はどうだろうかとみても、会場に告知はなく、開演までにアナウンスもなし。幽霊船の乗組口にうずくまる男が大柄な白人であるのをみてやっときょうは代役なしだと気付いた。それで、クレジットにはバス・バリトンと紹介されているニキティンさんの骨太の声を聴くことがかなったわけだ。ロシア出身で、ヘヴィメタル・バンドで活動したあと、音楽院に入りなおしてオペラに転向したとプロフィールが紹介されていて、苦労のあるひとだろうかと想像した。

ダーラント役の松位浩さんもバスが力強かった。大型バイクみたいな存在感を惚れ惚れと聞いた。もちろん、声域と声量だけでなく、優雅な声質のことをいっている。歌の存在感とおなじくらい、すこし俗っぽいいやらしさがあるけれども、心根にあっては娘のことをそれなりに気にかけているらしいダーラントの、照れ隠しのようなユーモアを表す演技も感じがよかった。ザールラント州立劇場で終身首席バス歌手という役職に就いているとプロフィールが説明していて、実績十分のすごい音楽家なのだとおもう。もっと聞いてみたいものだとおもう。

ゼンタ役のソプラノはエリザベート・ストリッドさんは、スウェーデンの出身。バイロイト音楽祭では『タンホイザー』のエリーザベトに『ジークフリート』のブリュンヒルデも演じた実績があるようだ。ゼンタも得意とする役らしい。バス・バリトンのオランダ人との重唱などは、声域の対比もいちじるしい。深いビブラートがおそろしく安定していて、これこそオペラ歌手の花形というような演奏。

エリック役のジョナサン・ストートンさんは、イギリスで注目をあつめる有望株のようだ。テノールが主役の作品であればどうみえただろう。この舞台では女々しい男の役で、英雄的ロールとは真逆の演技となっていただろうか。エリックというキャラクターが芯の弱い男だというのをどことなく立ち居振る舞いで表しているようにみえたのは演技の賜物とおもう。格好いい役まわりの演技、ひきたて役ではなくて主役の歌唱もみてみたいものとおもう。

合唱はいつも評判のいい新国立劇場合唱団で、この舞台では男性は水夫、女性は糸紡ぎの女中として、ざっとみて百人はいそうな大所帯でいた。おそろしい音圧で迫りながら、ドイツ語の音素が潰れずにくっきり聴こえるのがすさまじいとおもった。第二幕の糸紡ぎの歌とか、第一幕と第三幕の水夫の歌など、合唱団だけがステージを引き受けて、朗唱のパワーで圧倒しながら物語の進行を助ける場面もあった。生のパフォーマンスにもっともすごみのあったのは、ソリストよりもあるいは合唱であるのかもしれない。この太さをまざまざと知るのは録音では足りないかもしれない。