月曜日の夜に早稲田松竹でレイトショーをみた。『血塗られた墓標』はマリオ・バーヴァ監督の1960年のホラー映画。
冒頭のシーンはこうだ。若い女が木に縛りつけられて、悪魔信仰のそしりを受けている。馬に乗った聖職者がさばきをくだして、処刑人たちが彼女を取り囲む。重金属の仮面、その内側には無数の深く太い針が配してあって、処刑人はおおきな槌でそれを彼女の顔面に打ち込む。悲鳴をあげるその魔女が「子々孫々にわたる呪い」の言葉を吐くのを火あぶりにかける。しかしにわかに雨が降り出すと聖職者たちは散り散りに去っていった。
そこから二世紀後。一夜の宿をこの地にもとめた医学者クルヴァヤンは、通りがかりに地下墓所を探検して、ガラスで指を切ってしたたらせた血の一滴で、仮面の下の魔女アーサを目覚めさせる。アーサに生き写しの少女カティアと家族は、呪われた屋敷にいてただならぬ気配を感じる。クルヴァヤンは悪魔の手に堕ち、彼の弟子アンドレイはカティアを救うべく見えざる敵との戦いを戦う。
よみがえって襲ってくる死者のことをゾンビとは誰も呼ばないし、首から血を抜いて殺害する敵のことをドラキュラとは誰も呼ばない。演出の「お約束ごと」がまだ分明でなかったころの、ホラーをつくろうというクリエイティビティがぎっしり詰まっているようだ。
ひとつだけ垂直な力が映画にかかっている。それは土俗信仰の荘厳な力だ。なにかと十字架が無敵の聖具として機能する。墓所のこうもりを払うために拳銃をつかうシーンはあるが、敵との戦いには鉄砲よりも十字架をつかう。悪魔の手先は十字架が目にはいるとたじろぐ。無垢の犠牲者と悪魔の抜け殻をみわけるには、肌に十字架を課したときに肉が焼けるかどうかをみる。悪魔というオカルトに立ち向かうために十字架というもうひとつのオカルトをぶつけるのがすこし滑稽みもあっておもしろい。そのいっぽうで、十字架は無敵であると信じていてさえ、死ぬべきひとびとは十字架にしがみつくことができずに殺されるというのが、救済とは恣意にすぎないことのメタファーのようにみえておもしろい。
不意におとずれる死と悪魔におびえてしかるべき村民たちは、最後のシークエンスで群衆となって墓所におしかけて、見えない恐怖ではなくて手の触れられる敵としての悪魔が人間の形をして立っているのをみると、よってたかって悪魔の女を取り囲み連れ去って、気づけばはりつけにしてたちまち火あぶりにする。
ぼうっと考えた。死人は汚いものであるから火で浄化しようという感覚は火葬に慣れていればもっともなこととおもった。墓から蘇る死者が暴力を振るうのを原型にしたホラーと、怨念とかテレキネシスでゾッとさせるホラーとでは類型が異なるとして、それは土葬を前提にするか火葬を前提にするかという話かとみえた。
日本列島で火葬が主流になったのはいつからだろうと適当に調べたら、古墳時代は古墳に土葬していたのを、大化の改新が古墳造営を禁止した。これを「薄葬令」という。荘重な人身供犠を規制したから「薄葬」ということらしい。それで、おなじころに仏教の影響から火葬に切り替わる。
菅原道真とか六条御息所とかは、たぶん火葬されてよみがえるべき死体がなかった。でも死人のことは怖いから、怨念になってただよっていると怯えられた。そういう文化が恐怖話のフォーマットを規定していそう。
それはそうとして、地中から出てきた腐肉は怖いというよりさきに汚いという感覚でいる。『血塗られた墓標』でも、よみがえりの悪魔は生気のない顔をみて怖いというよりも、ただれた肌から異臭がしそうなのがいやだった。下水が吹き出して臭い、みたいな不快感により近そう。汚いことと臭いことと怖いことは別の感覚な気もするけど、あんがい根底では同じなのかしら、など考えもした。