金曜日の夜にサントリーホールへN響の定期演奏会に訪れた。

トゥガン・ソヒエフが登壇するこの一月のみっつのプログラムの、この日は最後だった。サントリーホールできくのをたのしみにしていながら、すこし波風のあった一週間の最後の日にいくぶん過労気味でもあったから、どれくらい集中力をもてるかと気にしてもいた。

実際、あんまり入魂はできなくて、親しみのもてるドヴォルザークだけたのしんで帰ってくるようだった。もっとよくできたはずだ、という感触は常に可能だから、それなりにたのしめたことだけ受け入れて、聴き逃した音については拘泥しないのがよさそうだ。

ムソルグスキーの歌劇「ソロチンツィの市」より「序曲」「ゴパック」はリャードフ編によるもので、軽快な音楽。バルトークの「ヴァイオリン協奏曲第2番」は、アメリカにわたる前の作曲家が戦間期のヨーロッパでしたためたもので、口ずさむことの難しい技巧的な旋律がめくるめくあらわれて、それでいて伝統の形式にしっかり軸足を残している印象が不思議な音楽。

ここまでが前半。バルトークをたのしみにしてムソルグスキーの予習は間に合わず、しかもバルトークのあいだは眠気との戦いとなってしまって、気がそぞろだった。とはいえ、いちど気絶してしまったことで気はたしかになった。眠気を飼い慣らそうとする戦いを後半まで引っ張らずに済んだ。

ドヴォルザークの交響曲第8番は、息の長い旋律が落ち着いて流れるのがおおくて、いかにも眠りを誘う管弦楽という具合かもしれないところ、じっくりと聴くことができておおいに満足です。

ブラームスがこの作品を評して、上質で美しい断片に満ちていて、主要なものを欠いていると述べた、とプログラムノートにある。アイデアが豊かで飽きるところがないのはたしかにそうだとおもう。しかも、ブラームスよりあとの時代にますます旋律や構造が解体されていくのを知っているときに、ここにはたしかに断片化のきざしはあるけれども、あくまで統合の範疇にあるということはできそう。かえって、交響曲というフォーマットへの批評や諧謔というのを全面に出しているような気もする。それが極端なマニエリスムになっていないのがちょうどいい。

フルート、オーボエ、トランペットが印象的だったとおもいだして、いや、ホルンもチェロもバイオリンもすごくよく聴こえたものだったと、あとから印象をあらためたい気配もある。半分は寝てたものがという自虐もあるなりに、刺激的だったことを長く記憶したいと願ってもいる。