月曜日の夜にサントリーホールへ札幌交響楽団の東京公演をききにいった。
演目に惹かれたのだ。武満の「乱」組曲がある。伊福部の「リトミカ・オスティナータ」がある。めったにない演奏会ではないかと。そして、たしかにそうだったろうとおもう。指揮は広上淳一さん。
もりだくさんだった。プログラムに先立って秋山和慶さんの追悼演奏をすると館内放送があった。拍手は禁じられた。弦楽がモーツァルトのディベルティメント K. 136 を演奏した。第二楽章だ。音楽家のみなさんがステージにあらわれて、指揮者があらわれても無音。しめやかなモーツァルト。それが終わるとふたたび無音。モーツァルトの軽快なぶんだけ、沈黙の重さは比類なかった。
「乱」組曲は四部構成で、はじめの三部までは二分未満の断章。最後にそれらをあわせた長さのドラマ性ある第四部が展開する。黒澤明のキャリア晩年の大作のひとつへのサウンドトラックだ。めったにない演目とおもったものだが、武満さんが札幌交響楽団を指名して録音をゆだねた縁がある。それがオーケストラにとっての重要なレパートリーとなって、演奏経験は豊かであるようだ。武満さんが札響に、東京のオーケストラにはない音を聴きとったいうことが耳を熱くさせた。これがスタンダードであると豊かに提示する演奏だった。
「リトミカ・オスティナータ」はピアノを招く。札幌出身の外山啓介さんがソリストとして、ピアノを叩く、叩く。強い拍動は変拍子のうえで居心地の悪さをつくらない。こういう批判的主張があるように聴こえた。音楽はどのように時間を歪めて分節したか。その自閉した分節のなかに進歩と発展を刻んできたか。すべての音楽的展開とは人間の野蛮の歴史であったか? 荒々しさは「春の祭典」のピークに匹敵するように聴こえつつも、目指す位置はそのさきをいっているようだった。誇大妄想が宇宙の殻を突き破るような破天荒だった。圧倒的なパフォーマンスだった。ピアノのアンコールはチェレプニンのバガテルという。
後半はシベリウスの交響曲第2番。プログラムノートによると、北のオーケストラが北の作曲家をとりあげるということに粋をみるらしい。よく響いて優雅だったとおもう。凝り固まって偉ぶったり卑屈になったりする歪みをまっすぐに整体するような演奏だった。技術的、音楽的にどうという解析は脱落して、札幌にすばらしいオーケストラがあることを知ったことの嬉しさにあふれて、感情的なたかまりを感じた。
アンコールはシベリウス「悲しきワルツ」だったそう。伝聞のようにいうのは、いくつもの熱演をききとげたとおもったあとに頭と耳が分離してしまって「もうひとつアンコールがあるのか」「すごいなあ」と、ありがたがりながらも気がそぞろでいたため。
熱意と熱量がよく釣り合ってきわめて高いレベルに充実したコンサートだったことはたしかだ。カーテンコールのなかで唐突に客席に照明が戻ったのは、ホールの撤収時間に間に合わないことに懸念があらわれたからにみえた。それくらいサービスが旺盛だった。ホールの出口で、ホクレンが片栗粉をお土産に配っておられるのをひとつもらった。