野方図書館の新刊コーナーにあったものを引き当てて読んだ。
食べてよし、お茶にしてもよし。グラスに無造作に飾っても、乾燥させて飾ってもよし。ドイツでフローリストとして長く勤めたあと、青梅で有機農園をいとなむかたが、ハーブの育てかた使いかたを教える本。
ベルリンのあのひとの家にお邪魔したとき、部屋をながめた景色のなかでこのようにハーブが配されていた、たしかにそうだった、といきいきと思い出させるものだった。初夏に郊外に招いてもらって木に囲まれたお屋敷で友だちの誕生日パーティをしたときも。まだ若くて生活への興味の低かったときには目のピントをそれに合わせることはほとんどなかったけれども、ハーブのある景色は目になじみがあって思い出させる。
十数種類のハーブをとりあげて、それぞれひとつの見開きで園芸上のコツを述べたあと、次の見開きで二、三のむずかしくないレシピを紹介する。きれいな写真をともなってテンポよくページをめくらせる。
「戦争はね、人間にとって、ごく普通の営みなんだよ。」
サッスーンは驚いて、「本当にそう思いますか?」と尋ねた。チャーチルは少し考えた。そして、ウイスキーのグラスをゆっくりと回しながら、こう言った。
「戦争と園芸はね。」
というのは、本当にチャーチルがいったらしい警句を GPT に挙げさせてそのまま翻訳させたもの。
こういう逸話もあった。会社ではたらいてやりがいもなく、仕事を好きになることはむずかしいようだ。好きでもないわりに、それ以外のことをやるゆとりもない。生きていることの目的がわからなくなってもがいたあと、狭いベランダでトマトを育てはじめた。人生に意味はなくても、育つトマトが好ましいことが気分を明るくさせた。インターネットでいつかみただけの話にはなる。
だから、というほどの因果はなく、もとよりチャーチルの話はどんな機知なのかもよくわからないけど、プランターで家庭菜園をやるというアイデアにはいつからかずっと惹かれている。すぐやればよさそうなものを、ベランダが北向きで日はあたらなくて、雨がふったらうちの前だけずっと濡れているみたいなハウスに暮らしているから、やるとしたら引っ越しをしたあとかなあと勝手に延期している。やればいいのにね。
ハーブはいいなとおもった。野菜を育てるよりも想像がつきやすい。ローズマリーとかは通年で収穫できるというし、スーパーに探しにいったらなかった、とアンラッキーな気持ちになる代わりに、うちの庭からいつでもちょっと獲ってこられますよ、というのはなかなか魔法のようにも聞こえる。
憧れが強すぎるのかも。でも思い通りになるかならないかよりも、手を動かしてみること、試みてみることのほうこそ必要なのかも。ハーブがほしいというのではなくて、外に出てちょっとした仕事をすること、その仕事が形になって口にはいるかもしれないのがいちばん身体によく効くような。
やりたいときにパッとやりはじめて、4月か5月から大葉とオクラの種をまいて、夏にそれを納豆にまぜてもりもり食べていたのは2018年のことだった。あの家のベランダはおそろしく日当たりがよかったから、といまではどうしてすこし逃げ腰だ。やってみたい気持ちと、容易にしていいものか迷う気持ちがぶつかっている。若いぼくだったらもっとぞんざいに着手していた気もする。変わったなあ、老いたなあとおもう。
とはいえ、すすんで諦めようとはしてしまわないで、こういう本に図書館でぶつかったことがもうひとつインスピレーションの素になりましたよという日記はする。