荻窪のキッチン共用のアパートに住んでいたときの友だちからしばらくぶりに連絡をもらった。結婚すること、式をあげること、披露宴のアフターパーティに招きたいこと。

その共用キッチンには、それをやったらひとがどうおもうかという感覚のおさない性格が集っていた。いい思い出と悪い思い出がどちらもあったと思い出したときに、それでもいい思い出がたくさんできてよかったねえ、と素直に肯定することがむずかしい。並のひとの良心とはこんなものであるのだな、とがっかりさせられることがおおいにあった。ひどかったことの例で、シャワールームに盗撮カメラをしのびこませて書類送検された者があった。

世の中のアベレージがそのあたりにあるらしいということをぼくは知ったとおもうことにして、離れて距離をおいたのだった。それくらいがせいぜい前向きに咀嚼することのできるぎりぎりのあたりだったようだ。なんかめでたい話とは遠くなっているが、思い出ばなしだ。

そのアパートで、そのアベレージあたりの人間関係からすこし距離をとったところで気楽なやりとりのできたひとだった。自分をおおきくみせない。卑屈になってみせない。自分は自分という素朴な信念をもてずに右往左往しない。ひとの悪口をいわない。こう書いてみるとすごいひとだなとおもう、そのひとが招いてくれた。そりゃいくしかないわけだ。

ひとまわり上のひとだから、参列するひともひとまわりうえにみえた。結婚のおあいては音楽プロデューサーなどの仕事をしているひとということで、会場にきているひとはみんなおしゃれでダンスが上手そうだった。見た目がいかめしくてもみんなにこにこ笑っていた。ぼくもそうだったとおもう。

もうひとりその荻窪のアパートの知り合いで仲のよかったひととぼくとで、ふたりして訪れるはずだったのが、そのひとは仕事の折り合いが急に悪くなってこられなくなった。ぼくは完全アウェーの会場に単身で乗り込むような格好。ちょっと緊張した。あんまり早くつきすぎないように、渋谷の名曲喫茶で時間をつぶしてから、青山まで歩いていってちょうどはじまる時間についた。

それなりに緊張感はあったはずなのだけれど、過ぎてみればなんのことはなかった。披露宴で流れたというビデオをもういちど流してたのしむという余興があった。仲のよさそうな主役ふたりの写真が次々写される。おそろいのシャツをはじめてゲットしたときのツーショット、のように、特別でないことに特別なことを見つけられるのは美しいこととおもった。いいなあ、と素朴にいったら、横並びにいたバスケットボール選手みたいな背丈のひとと、ガクトみたいなクール系のセンスを放っているひとが同時にこっちを向いた。心の声をぼくが代弁したようだった。そのごときをひとつ社交の種に変換する陽気さもすばらしいこととおもった。おしゃべり上手なひとばかりだなとおもって気楽にしていた。そうしたら、あんたがバーテンやってる店あったら超たのしい、いつも飲みにいくからがんばって、と励まされた。なんだそりゃとおもって、悪い気にはさせられなかった。

ひとりでもくるとは思われていなかったようだ。サプライズだったみたいだ。いろんなことに感極まっている様子で、ありがとう、ありがとうと何度もいわれた。いやいや、こちらこそありがとう、おめでとう、お幸せに、というばかりでした。いい気分でパット・メセニーを聴きながらひとり青山通りを歩いた。