水曜日の夜に映画をみに出かけた。『アプレンティス』はドナルド・トランプが修行時代を経て一人前のプレゼンスを手に入れていく過程をみせる伝記映画。
若いドナルドが金持ちのクラブにいる。家業の不動産経営は傾いている。貧しい団地にみずから家賃を回収しにいくドナルド。経営の失敗は、アフリカ系アメリカ人への賃貸を渋ったことだ。政府に訴訟を起こされている。それでも若いドナルドは成功に野心をたぎらせている。
ロイ・コーンと社交場で出会う。あのロイ・コーン、とドナルドはスターをみる目でみる。勝利にこだわる弁護士だ。おれがお前なら政府を訴え返すと豪語する。人種差別の証拠はどこにもないのだからと。ドナルドも同調する。政府はいじめっ子だと。しかし人種差別の揺るぎない証拠はロイの予測に反して歴然とあがってきていた。都合の悪いことはみなかったことにして、あとから怒られるドナルドは、チームメイトであったならいかにもできの悪い、情けないやつだ。
とはいえ、その不利そのものの訴訟をロイはひっくり返す。ロイとドナルドの師弟関係がはじまる。ニュースの文字のうえのドナルドが傍若無人に大騒ぎして、公正をおもんじる人々はなすがままにされるばかりのあの様子、それはロイ・コーンがドナルドに叩き込んだ渡世術であることを映画は描いていく。
ドナルド・トランプ(セバスチャン・スタン)の成り上がりをいちおう軸にするのだけれど、劇がすすむほどに凡庸を窮めていくドナルドのことを映画は描くことができなくなっているようにおもう。負け犬のトランプにはそれなりに魅力はあったといってもいいが、野心にふさわしい成功を得たあとは空っぽになって、おもしろみを持たない。そのとき、それよりも強烈なペーソスをひとつとらえていることが映画を特別にしている。ロイ・コーン(ジェレミー・ストロング)の没落のことだ。
やり手の、負け知らずの弁護士。男らしさと愛国心の堅固な体現者。そういうイメージで登場する。ドナルドはコーナーに追い詰められたボクサーの立場でこの男の前にはじめて立って、身の程をわきまえていようがいまいが、子犬のようにかすかな存在だった。この力関係がひっくり返って、ドナルドが栄華を極めるさまを強調すればするほど、不在のロイの足取りがちらつく仕組みになっているよう。
いっそロイ・コーンが主人公だったとしたほうが味のある映画とみえる。たまたま広告のやりかたがもうひとりの男を主役にさせたけれど、映し出されている内容はひたすらロイの栄華と没落についての話であったのではないかと。
いやらしい人物ではある。そう描かれているし、おおくのひとがたしかにそういうだろうとも。悪人には悪人にふさわしい末路があったというだけにもみえる。もし地獄というものが、生きているあいだに帳尻をあわせられなかった悪行の負債をきれいにするために考え出された場所だとするならば、ロイ・コーンは天国にも地獄にもいくことのできない、救いようなく貧しいひととみえる。
うぬぼれにふくらんだ虚像を支えてひとりで立ち続けることができなくて、たくさんいたはずの友だちは誰ひとり助けてくれなかった。本当の友だちはひとりも作れなかった。病気だけを伴侶に、世界から見捨てられてしまった。心の弱さが招いた結末で、当然の報いにほかならない。
ぼくにも同じ弱さがあるのだ。後ろめたい気持ちを握りつぶして、虚栄心だけを味方にして乗り越えたピンチもあるのだ。それで傷つけたひとびとの怨念を背負って、人生の最後の瞬間をだれにも味方してもらえずに、たったひとりで迎えるという心細いビジョンは、ぼくにもある。ロイ・コーンの貧しい姿はそれを思い出させる。
ロイ・コーンがどんなに哀れな魂を備えていたかは『エンジェルス・イン・アメリカ』でも語られていた。空っぽの強がりだけを武器にエイズと対峙して滅んでいくだけの孤独な男だった。陳腐な悪として以外に記憶するには値しないやつだということはすっかり覚えている。しかし神話のなかのアメリカのこの一挿話を眺めるときに、恥にまみれて恥をみとめずくたばったこの悪役がおもわず注意を惹いている。ドナルド・トランプの神話のなかにあっても、いまとなっては「より小さなほうの悪」と消極的にいうことももしかすると許されるかもしれない、この惨めな元弁護士に同情している自分の姿をぼくはみた。
映画の最後にかけて、会話しただけではエイズが伝染しないことをきいたドナルドは、衰弱したロイをフロリダに招待する。59回目の誕生日パーティだ。車椅子を押してやりながらドナルドは前向きなビジョンだけを語ってやる。覇気を失ったロイはまるでドナルドの父のようにしずかにそれをきき、無言の励ましを感じているようだ。プレゼントにといってダイヤモンドのカフスボタンを贈られて誇らしそうにする。限られた人数だけのパーティの席で、ドナルドが真の愛国者とロイをよんでねぎらう。おなじ席でそれとなく、贈り物はダイヤモンドではなくてジルコニアだと知らされて無表情のロイ。誕生日ケーキをみておろおろと涙を流すロイ。それを最後に、ひとりのための葬式ともうひとりのための美容手術がひとつながりの重なり合ったシークエンスとして映される。グロテスク、グロテスク。
冒頭をおもいだすと、ニクソン大統領が不正を疑われて、司法への協力を宣言するフッテージで映画ははじまった。ニクソンの辞任声明の放送をドナルドがテレビでみる場面もある。レーガンがいまとなってはあまり印象に残らないスローガンをもったいぶって発話する場面もあった。最後のショットは、だんだん近づくカメラがドナルドの目にニューヨークの景色が映っているのをみせて、あまり印象には残らなかった。エンドロールでは舌足らずな感じで “Yes sir, I can boogie” と繰り返すディスコ音楽が流れて、なにやら希薄な存在感で遠ざかっていった映画にいかにもふさわしいとおもって、ぼくの好みからは遠かった。