理性がひとをどのように自由にも不自由にもするかを縦横無尽に語る本。

理性というとき、おおむねテクノロジーのことと思えばいい。テクノロジーの代表にオートバイを取り上げているけれども、コンピュータに入れ替えてもいい。そもそも現代のオートバイは走るコンピュータみたいなものだし。

禅について深い示唆を与えることはしない。ブッダというメタファーが散発するだけだ。オートバイ修理技術についても多くは語らない。一人称の語り手が修理の手際を散文的に述べること場面がいくつかあるだけだ。

理性、科学、テクノロジー。客観性。取扱説明書、マニュアル。教育、大学。合理主義。これらのものはどうつながっている? どう揃って害をおよぼしている? これらのものそのものを使って、これらのものそのものに備わる悪をやぶることはできる?

ソクラテスが創始してプラトンが永遠のものとした弁証法をいっぽうに。もういっぽうには、彼らが熱心に否定して退けた弁論術を。ソクラテスの教えを土台にして、ただひとつの「真の実在」が存在すると夢想したプラトン。それに続いたアリストテレス、ルネサンス、現代の諸価値。でっちあげられた「真の実在」が抑圧しているものがあるに違いない。

徳、アレテーはより優れたものを志向する。理性は徳のなすわざであるが、唯一の徳ではないようだ。古代ギリシアの頭脳は、どうやら徳と理性の従属関係を倒錯させた。理性とよばれる詳細にすぎないものをグロテスクに誇張した。極度に作為的な、弁証法、合理主義、客観的価値、科学技術。

よりおおきな善は本質的に多義多元的で、定義を拒む。ひとことで言い表すことのできないものだ。定義できないことに我慢がならないものどもは、善に耐えられずに解体を試みる。やがて踏みにじる。ただひとつの真実があって、弁証がそこへとかならず導くとする。ソクラテスはそこから彼が生まれた知の系譜を否定し、断絶をもたらして、みずから父の座におさまった。西洋哲学の開闢、それに先行したものは暗黒ではなかったことをこの本は述べようとする。

現代の理性は、地球が平らだと考えていた中世期の理性と大して変わりがないと私は思っている。理性を超越してしまうと、向こうの世界、つまり狂気の世界に落ち込んでしまうと思っている。そして誰もがそれを非常に恐れている。この狂気に対する恐怖は、かつて人々が抱いた地球の端から落ちてしまうという恐怖と勝るとも劣らない (290)

豊かな善をみせないように世界は構築されている。都会の生活様式はそう命じている。都会と田舎の二元論ではない。都会の生活様式が田舎へと滲み出している。物質と精神のあらゆるレベルにおいて。都会は侵略する。そうでなければ、都会のような力の凝集点は、古今うまれるはずもなかった。文明は都会のフロンティアを広げる。

枠にあいた窓から景色をみせること。枠のなかにおさまること。車の話をしている。テレビの話でもある。スクリーンの話でもある。隔離された空間にいて、その窓をとおしてだけ世界をながめている。受け身の観察者がそこにいる。しかしオートバイなら? 自然の唸る臨場感に包まれてある。傍観者でいることは危険だ。自然に起こる経験はいずれも逸脱しないで意識に介入する。

礼儀ただしくあること。いま、ここにあることから意識を離さないこと。それから疎外されて意気をくじかれる人間。疎外してくじく文明。とはいえ、人間をとりもどすために文明を破壊する必要はない。

理性とテクノロジーの塊の、オートバイがここにある。コンピュータでも構わない。調子の悪いオートバイを、手仕事で修理してもとにもどす。コンピュータにおびえないで、ハックするやりかたを学ぶ。参考書通りに、型にはまったやりかたばかりにしない。クリエイティブにやる。すこし壊したっていい、部品を交換したらまたやりなおせる。マシンは威嚇しない。怯えているのは人間のほうだ。

でも礼儀正しくやるのがいい。言うことを聞かないオートバイにしびれを切らして、崖から突き落としてしまったらおしまいだ。コンピュータが動かなくてディスプレイに穴をあけても惨めなだけだ。理性の外からやってくるひらめきを待つこと。理性の内からこみあげる、実験的検証をおろそかにしないこと。根気をもつこと。自由は技能にやどるのをわきまえること。厚かましさと礼儀正しさのどちらも備えること。

最高のハッカーになりたいと望むこと! そうして理性のなかで理性から自由になれるかもしれないことを説く本。

めるくまーる社の一巻本、一九九〇年版。