図書館から気軽に借りだした本におもわず深く引きこまれた。

移民と「移民国家」のイメージを、太平洋をわたったアジア系アメリカ人の足跡をなぞって語り直す使命のこもった本。語り直すというときの相手は、白い肌をもったヨーロッパの民だ。

労働力の調達というテーマをもうひとつの中心に据えている。はじめ開拓者は強制労働する白人が多数を占めた。夢もって自由にやってきたというよりも、大規模農園の人手不足を埋めるためにあてがわれた。やがて貧しい白人に代えて黒人奴隷をあてがった。やがて黒人奴隷に代えてアジア系の労働者をあてがった。労働力はいつも不足して、強制労働させて搾りとるシステムを洗い替えることに熱心なアメリカの像。

奴隷解放によって無料で無限だった労働力を調達する道がひとつ潰れたから、奴隷の代わりになる労働力を輸入した。その新しい奴隷がアジアからの移住者だった。そういうことをいってある。ビジネスマンはそこから搾り取るための労働力をアメリカに吸い込む。貧しい労働者はより貧しい労働者を罵る。

こういう問いもある。自発的にはたらくのであれば、実態が奴隷労働であっても許されるか? 疑問文は問いというよりも反語のための修辞とおもいたいものだ。とはいえ、手にとって触ることのできない自由意志だけにもとづいて、わたしが奴隷であるかどうかをわたし以外の誰かに定規をあてて計測されることのおののきがある。わたしを一単位の労働力に還元する見えない力のあることの不気味さ。

奴隷制度のことを、無料の労働力を終わりなく調達させるシステムと呼ぶと筋が通ることをぼくはすこし前に知って目からウロコが落ちるのをおもった。金になることの前に倫理を立たせて、いつも金が勝つのは仕方がないと諦める心がある。奴隷解放を達成すれば道徳的優位性が国際的な優位性をもつ。それがのちによりおおきい利益を生む。だから解放するのだ、という論法はしっくりくる。制度さえ更新したことにできれば倫理や善性はおきざりにされて、あたらしい奴隷制を生み出して飽きないということもしっくりくる。

どうしてアメリカはまだ植民地をほとんどもたないころから、イギリスに追いつき追い越す世界一の工業国になることができたか。植民地を支配して強制労働させる代わりに、はじめに奴隷を、やがて移民を強制労働させて、労働力を持続的に奪いつづけてきたからなんじゃないか。奴隷制と保存したい欲望のまま、奴隷を移民と呼びなおして解毒した、そういう労働力を使い倒して伸びたアメリカ。

いずれにしてもたしかにおもわれること。アメリカを縁の下のいちばん深いところで支えて担ったのはどうやら無名の労働者たちで、それは特に肌の色の白くないひとびとが隷属状態のなかで築いたものと想像するのが近い。

建設にしても介護にしても、すっかり人手不足が当たり前となって、移民の助けがなければこの国はもう立ち行かないという議論に深入りすることがもしあれば、ぼくはそこにあたらしい奴隷を生みだしたがる欲望を混ぜないことができるか。そこから絞るために強制労働させておきながら、社会のルールを乱すグループだとレッテルを貼って叩く性向があらわれたときに、隷属させるかわりにおなじ労働をおなじ賃金ではたらくという目的のために、いまよりもうすこしうまいやりかたを率いることができるか。

やがて身近なこととして違うグループのひとと交じるありようをみとめるときに、無力感以外のなにかの答えを自分にうながしたいと望んで、ここに返ってくることのできる本。

多岐にわたる情報を手際よく整理して、決まり切ったひとつの答えを提示する向きに陥ってしまわないように苦心しながら、答えのない答えのもろさを隠さず伝える語りかたはできることを教える本。

話の筋はあちらこちらに揺れるようで、脱線したと失望させずに、むしろ脱線は脱線でなかったとあとから気づかせられたときに、いったいどんな鳥瞰図をもちいてこの語りかたを設計できるのだろうとかんがえさせて、まずこれは一朝一夕になるものではないと諦めさせる本。