年度末で川村美術館が閉館する。その最後の展覧会を日曜日にみにいった。開館時間をすこし過ぎたくらいについて、駐車場は九割埋まっていた。館内もみたことのない混雑だった。

いけばいつも空いていたものだった。週末であっても。立地が不利でひとがはいらないから運営を続けないことにしたというのはよくわかる。閉めるといったらひとが集まるというのもわかる。しかし度を越した大入りをいざ目の当たりにして、困惑してしまった。

この日おとずれたのは美術館というより告別式場だったとおもいだすことしかせいぜいできなそうだ。混雑と騒音でまったく集中力がわかなくて、インスピレーションを得ることも難しかった。とはいえ、このような不満足を川村美術館に感じたのはこれが最初で最後になる。浮世離れした立地にあって、もっともすぐれたコレクションのひとつをいやらしく見せびらかそうともせず、まあそこに座って静かに瞑想でもなさいという具合に、いつも静かにドアを開けていてくれた美術館だった。

今期の展示を最後に閉館するというが、閉館をもって臨終するのではなくて、閉館のアナウンスをしたときにはすでに臨終していたようだ。最後の展覧会は、実際にどうあったかというよりも、これが実際でありましたというすばらしい思い出を集合的に共有するセレモニーだったようだ。葬式は死がすでに起こったショックをあとからやわらげるためにいとなむものであって、死亡時刻に合わせて最後の宴会をするのではない。そもそもそういう道理になっている、ということを強く思わせた。

はじめて美術館にこられましたか? ここではハンバーガーは売っていないのです。というレベルで、ふさわしい居場所を間違えておとずれてしまったかたがみえたりした。オーバーツーリズムと呼ぶにふさわしい、しかるべき敬意の感覚が欠損しているかたがみえた。とはいえ、こちらも都心からおとずれた観光客だから、おなじ穴のムジナと思わされて、悲しみがあった。直接なにかをされたわけではないけれども、消耗させられてしまった。

いっそ順路はまもらずに、ひとごみを避けることにだけ最適化するように動いて、こういう作家と作品をみられた。フランク・ステラの幾何学模様をかたどった巨大なカンヴァス作品群。ジャクソン・ポロックの小さなコンポジション。ジャスパー・ジョーンズの、ひとを食ったような食パンのレリーフ。はじめてみたときに衝撃を受けた光のあふれる展示室からは動かされていて、きょうはみられないかとあきらめていたら、もっとも奥の展示室でおもわず再会できたジュールズ・オリツキーの「高み」。クルト・シュヴィッターズの、石膏でできた簡単な形に簡単にいろをつけて、単純でありながらはにわのように永遠の美しさをつくりだしたちいさな彫刻たち。アンリ・ル・シダネル。立派なロスコの部屋は、騒がしくてだめだった。

午後まで長居するつもりで出かけてきておきながら、二時間くらいで済ませてお昼前には去る。東関東道を湾岸線に乗り継いでノンストップで走っているあいだに、オドメーターが一万キロを打って過ぎていた。ゼロが4つ並んだメーターの写真は撮れなかった。止まれる道路だったら停めて撮っていたかもしれない。もっとも、重々しく証拠をひかえるよりも、通過点にすぎないものをただ通過させるだけとできて、わるくない気分だ。これで車検から数えて三千キロメートル走ったから、エンジンオイルの交換に次はチャレンジしてみよう。