土曜日の午後に初台オペラシティのホールにオーケストラをききにいった。

演目はヴェルディの「レクイエム」のひとつだけ。骨のある八十分はあっという間に感じさせた。壇上には百五十名は数えられそうな大合唱団がいて、四名の声楽ソリストもいる。オーケストラもあわせると二百人くらいの大所帯で、千人くらいのホールにとってはいちじるしく気合のこもった演目だったようだ。

テノールの笛田博昭さんの輝かしい歌いかたの存在感がわすれがたい印象を残した。ラテン語の詩句がおおくのひとにとって耳で聞いて馴染みない音の配列に聞こえるのとおなじように、声楽家にとっても機微をとりづらいものであるはずと想像するときに、圧倒的な自信をともなった佇まいが意味を超えた説得力を声のなかに立ち上げていた。

ソプラノの中江早紀さんも華やかだった。メゾソプラノは加納悦子さん、バリトンは青山貴さん。全曲をとおして代わる代わるソロ、デュオ、トリオとめくるめく聞かせて、いいものだった。

その中身とは離れたところで、初台の会場まで新宿からゆっくり歩いて向かうときに、まったくぼんやりと歩いているこちらに向こうからするすると突進してきて、大声を出して「余計なお世話」を不意打ちに説いておどろかせてくるものがあった。吹けば飛ぶような、ちいさなヨーロッパ人がすれ違って離れていった。

あの調子で新宿まで向かうなら、いちど相手を間違えて、ぼくが取り逃がしたのとは違って思い切り顔面をぶん殴られて、鏡をみるたびに前歯をなくした情けない顔をみて残りの人生の日々を生きてほしいと祈った。ヨーロッパ人の音楽と考えてあのみにくい小男の「余計なお世話」を思い出さないことはむずかしく、そんなつまらない理由のせいで心からたのしまされたとおもうことはできなかった。