春分の日に東京文化会館でオペラをみた。
小澤征爾音楽塾は、京都の企業「ローム」がスポンサーして、東アジア圏の若い器楽奏者のオーケストラにオペラ上演を経験する機会を提供するプロジェクト。国際的なキャリアをもった歌手と演出家たちがそれに手を貸すという格好になっている。プログラムにはオーケストラ団員の名簿と略歴が載っていて、みな学生か、大学をちょど卒業したところである様子がとくに特徴的であるようだ。老若混交ではなくて、若がかたまって晴れ舞台を踏んでいる。
「椿姫」は、社交界で華やかな存在感で男性たちを惹きつけるヴィオレッタ(ニーナ・ミナシアン)と彼女に夢中になるアルフレード(カン・ワン)が出会い、すれ違い、死別するのを描く。19世紀なかばのパリにあって独身女性が自立した家計をもつには社交界で尊敬をあつめる存在を目指すしかなかった(ということのようだ)。社交界とは性的交遊のことを婉曲にいう表現にほかならなかった。花魁といえば意訳がすぎるが、似たような地位だった。すなわち、紳士たちは表面上は敬意をあらわして、心のまなざしは軽蔑をもって彼女らを見つめていた。
高級娼婦と呼んでいい相手と知ってかしらずか、アルフレードはヴィオレッタに猛烈な愛を伝える。ヴィオレッタははじめ拒んで、ころりと落ちる。サロンからは足を洗わせて、田舎に隠遁してふたり幸せに暮らしているとアルフレードが信じているとき、実は家計を工面しているのはヴィオレッタだった。パリでの稼ぎを切り崩して生活していた。
アルフレード・ジェルモンは情けがないとあわてて金策にはしる。そのあいだ、ジョルジュ・ジェルモン(クイン・ケルシー)がヴィオレッタをおとずれる。アルフレードの父だ。息子があなたに夢中になっているせいで、娘の婚約が破談にされそうだ。ついては息子から手をひいてくれ。私のふたりのかわいい子のために、どうかあなたが犠牲になってくれ。要旨をいっているのではなくて、ほんとうにそういって歌う。ずけずけと罵倒のアリアをまくし立てられて、ヴィオレッタは絶望して折れる。アルフレードを捨て、パリに戻る。社交界へ復帰することしか独立して生きる術は彼女に与えられていない。
復帰したサロンで別の男爵の介添えをするヴィオレッタのところへ、アルフレードが追いすがるようにやってくる。情けを乞うのではなくて、田舎暮らしにかかった費用を返済するといって、衆目の前でこれもくらえと金をばらまいて、ヴィオレッタを侮辱する。ふらりと倒れたヴィオレッタは持病の結核を悪化させて、あとは死ぬだけになる。
という、自立した女性を懲らしめるための悪意を煮詰めたような最悪のオペラで、いくつかのキラーチューンに支えられていなければとうに歴史から忘れられて構わない作品のようにおもわれる。とりわけアルフレードの父がなぜか息子の代わりに息子の恋愛相手をつかまえて、あなたは息子を堕落させていると耳打ちする筋書きは余計なお世話もいいところで、リリックのすべてが老いた俗情の醜さをいやらしく強調している。ギョッとするようなミソジニーを美しく歌いあげられても、拍手したい気分にはならなかった。興奮にかられて相手の頬をひっぱたいたあと、でもわたしはあなたを許そう! と力強いエンタイトルメントを披瀝して歌い上げるところはバカにも程があるといっそ感心してしまった。
救いようのない台本でも音楽を根拠に演出を作り変えればみるべき部分を生み出すことはできたかもしれない。現実はそうはなっていなかった。ヴィオレッタ(ニーナ・ミナシアン)は繊細で不安がちで、いつも緊張のまっただなかにある所作を与えられている。肩に力のはいって、自然な動きのできない像として提示される。ソプラノの高音部にはいちじるしい輝きがあるが、低音部でオーケストラに圧し負けるところもある。他方でジョルジュ(クイン・ケルシー)のバリトンは威厳があって深く、凄みで圧倒する。悪役ととるのが自然な配役にあって、歌手の技量としてはこの日いちばんのものを見せたとおもう。
19世紀の性的規範を男性の立場から講釈する声に最大の存在感をあたえて、抑圧される女性にはそれに対抗しうる声を与えない。歌手の個性に罪はないにしても、演出はキャスティングの段階ですでに失敗を内包していたようだ。女性が自立するため数すくない機会を求めて社会に打って出たときに、自立を目指したこと自体があなたの間違いだったのだよとねんごろに教える男性の寛容さを奇妙に強調した演出となってしまっていた。いやなものをみた、とおもってしまった。
とはいえ、悪かった部分はすべて演出家のせいにしてしまえる位置にある。歌手たちとオーケストラはすばらしいコラボレーションをしていたようにみえた。となんとか前向きな感想をしぼりだして締めくくろうとおもったけど、やっぱりだめそうだ。努力した女性がなぜか威厳ある男性にボコボコにされて最後には命まで落とさなくてはいけないという悪いプロットを悪いままに上演するのを、若い芸術家のためのプログラムと銘打って取り上げるのは、ほんらいは粋なはからいであったはずのプロジェクトをひどく無粋にしてしまっているのではとおもった。社会政治的なことがらとは別に音楽的収穫はあちこちにあったに違いないけれども、高齢の白人男性が監督する舞台のスケールの小ささばかりが悪く目立ってしまっていたことはたしかであるようだ。