早稲田松竹で二本立てをみた。ジェフ・ニコルズの監督による『ザ・バイクライダーズ』は60年代のシカゴを舞台にして、バイク乗りの男たちがおこした同好会が徐々によこしまな徒党となる様子をみせる。

シカゴ・ヴァンダルズというそのサークルをおこしたジョニー(トム・ハーディ)は「優しい独裁者」だ。そうはいっても、はじめから不穏な徒党を組みたかったわけではない。バイク乗りははみだしものだ。大好きなバイクを連れてみんなでピクニックにでかけたい。そこでマシンを見せ合ったり、技術を競ったり、のんびり飲んで過ごしたい。自分たちのための同好会を作りたかった。おのずと輪はひろがって、近くはミルウォーキー、遠くはカリフォルニアまでヴァンダルズの噂はひろまる。

地元のバイク狂いのベニー(オースティン・バトラー)は無口なあらくれ、ルールに縛られない天衣無縫で、気持ちよく走っているうちつい信号無視して、パトカーに追いかけられるとついスピード勝負に乗ってしまう。どこへでもヴァンダルズのジャケットを着て出かけるが、ヴァンダルズそのものが地元の迷惑の象徴ととられてひとり虐待される。ジャケットを脱げと脅されてもジャケットを脱がない強情っぱりだ。

キャシー(ジョディ・カマー)は語り手役。独白ではない。写真家のダニー・ライオン(マイク・ファイスト)が彼女にインタビューするのを聞き書きする体裁で、あるときはコインランドリーで、あるときはキッチンで、彼女が目撃したヴァンダルズの栄枯盛衰を述べる。もともと不良でもなんでもなかった彼女は、友だちのための用事でヴァンダルズのたまりばのバーをおとずれ、ベニーのアメリカンバイクのうしろに乗せてもらった。たちまちベニーと結婚して、彼とモーターサイクルクラブのなりゆきを見守ることになった。

アイデンティティと誇り高さは誰もが持つべきもので、それはたったひとりであっても堂々と立つにふさわしいものだ。いっぽうで、たったひとりのユニークなアイデンティティが帰属して寄り合うグループがあるのもすばらしいことだ。似ているけれどすこし違う個性が寄り合ってはじめてうまれる喜び。ヴァンダルズが成立していく過程は、友だちが増えていくことのはじける喜びそのものに満ちている。はみだしものたちが集まって、はみだしものであることを誇り高くおもっている。それでいて、おなじはみだしものがきっと世界にはまだたくさんいて、はみだしもの同士で理想の世界を作れるんじゃないか、おれたちでそれを作れるんじゃないか、とちいさな夢をおおきくみるところがまぶしい。

たかだか好きものの集まりに過ぎなかったはずのその同好会が、騒音集団としてわるく目立ってしまう。街の迷惑ものとなってしまう。ヴァンダルズがみんなでいるときに街のひとはおびえたように沈黙する。そして脳天気なベニーがひとりで無防備にしているとき、制裁する腕はかれに振り下ろされる。悪意が悪意をもって報いるさまに、ジョニーはヴァンダルズがもはやはみだしものの同好会ではないと気づく。街を恐怖させる影響力をもっていることに気づいてしまう。

映画の後半は、能天気でヒッピー的だったモーターサイクルクラブが徐々にグループの良心を腐敗させて、白人男性の危険な思想をたずさえたごろつき集団に生まれ変わるのをみせる。新しい会員はクラブへの忠誠のあかしに相互監視と暴力による制裁システムを自発的に導入する。自由のあまりつい法律からはみだしてしまう不器用なバイク好きの集まりは、やがて反社会的であることだけを生きがいにして、かえって社会にとらわれて自由を失った。

ひとりでも揺るがないアイデンティティのあるバイク好きたちは、ほかの同じようなバイク好きたちと寄り合うことでますますバイクが好きになった。グループとかコミュニティに帰属することの健康的なよろこびがいっぽうにある。もういっぽうには、アイデンティティを見失ってエゴが揺らいでいる若く苦い魂があって、コミュニティがアイデンティティを与えてくれるはずと心細くすがるのがみえる。対比するほど不幸な空虚さがみえる。

よろこびと悲しみは作用と反作用のように切って切り離せないことを切なくみせている。生きるために生きることを許さない傲慢がどこからともなくあらわれることの不思議は地上のどこにでもあるようだ。ひとりのよろこびがみんなのよろこびになることと、みんなのよろこびがひとりのよろこびにはならないことの非対称を痛々しく描いてすぐれた映画。

ヘルメットをかぶらないで誰もいない晴れた道をかっとばしてあんまりにも気持ちがよくて歓声をあげるベニーの興奮は、フルフェイスをかぶって走ったことしかないぼくにもよくわかるとおもった。ありきたりな興奮をありきたりなままおもいきり描いているのが爽やかにみえた。