早稲田松竹で二本立てをみた。アレクサンダー・ペインの監督による『ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリデイ』は1970年のニューイングランドの名門男子高校を舞台にして、帰省できなかった学生と教師のおじさんと給食のおばさんが寄宿舎にとりのこされてクリスマス休暇を過ごすのを描く。

厳格、頑固、杓子定規。口をひらけば自分の専門にひきつけたウンチクでしか会話をすることのできない古典教授のポール・ハナム(ポール・ジアマッティ)は、倫理観の高さがトラブルを起こすことのおおいキャラクター。

学生食堂の料理長のメアリー・ラム(ダヴァイン・ジョイ・ランドルフ)はアフリカ系アメリカ人の女性で、嫌な金持ちの白人学生のために長年はたらいているのは、息子のカーティスがこの学校で「きちんとした教育」を受けられるようにするためだった。そのカーティスを大学にやる資金までは準備できなかった。カーティスはこの年ベトナムで戦死した。

アンガス・タリー(ドミニク・セッサ)は、厳格をとおりこして嫌がらせめいたハナムの古典のコースでまずまずの、まずまずとはいってもそれでクラスいちばんの成績をもつひねくれた優等生だ。クリスマスは家族でセント・キッツのリゾートにいく予定でいたのが、母親と再婚相手がふたりきりで過ごしたいからやっぱり中止にさせてくれというので、思春期にとっては最高にやるせない気分で寄宿舎にいやいや残ることになった。

はじめ、寄宿舎居残り組はアンガスをいれて五人いた。ひとりは甘いマスクで背の低いかわいそうないじめっ子。ひとりはアメフトバカ。もうふたりは声変わりをするかしないかの年頃のモルモン教徒で、両親が伝道旅行にいっていて帰省できなくて寄宿舎に残されている。うちひとりは韓国系の子で、白人だらけの学校で友だちを作れないことに悩んでいそうだ。

ジョン・ヒューズの『ブレックファスト・クラブ』みたいに、この五人が告白と成長を行き来しながらだんだん打ち解けていくところを描く映画とおもって導入部をみていた。しかし導入部がおわるとすぐに、アンガス以外の四人は寄宿舎から退場していなくなる。結果として映画は、アンガスとポールの奇妙な関係を濃くみせるようになる。それはそれでいいとおもうのだけれど、あの四人がそれぞれ屈折を抱えていそうな様子をすこしだけのぞかせたきり、まるでプロットの邪魔者みたいに退場させるやりかたに消化不良の感はある。

ハナム教授とアンガスくんのコンビ。強烈なエゴをもった男ふたりがぶつかりあって、やがて心をひらいてたがいの弱さをしりあうというのは、まあわるくない話のようにみえる。やさしさのないふたりではないから、息子を失って悲嘆に暮れているメアリーがあいだをとりもつことによって、プライドの高い男どうしの関係性が徐々にやさしさをはらむようになる。それはいいことのようだ。

ハナム教授はクソ頑固でつまらないひねくれものにして、倫理的にまっとうなことを率直に述べて社会と摩擦するのは美徳にもみえるから、彼のおこすトラブルは彼の責任ではないかもしれないと黙認させるように映画は途中まで作られていた。しかし中盤以降に差し掛かって、彼の内面の弱さが倫理な問題さえ含んでいることまで見せてしまって、あれ、実はこいつただのやばいやつなんじゃないの、と思わせはじめてしまって、終盤にかけて人物造形が崩壊していた。

ボストンでかつての学友、ハーバードの同窓生に不意に呼び止められたハナム。相手はいまでは母校で統計を教えているという。対してこちらは高校生におしえるしがない古典教師だ。ハナムはプライドに任せてでまかせをまくしたてて、国際的なフェローシップをいくつかもって、いまはアントワープに住んでるとか吐いてしまう。隣にいたアンガスが高校生なりの機転を効かせてその嘘をフォローしようとするが、なにせ高校生の知識の範囲でフォローするから、ますます状況は悪くなる。死線をくぐり抜けたとおもっているのはふたりだけで、統計の先生と観客はみえみえな嘘をがんばって固めるのを気の毒に眺めるだけだ。おそろしくリアルで痛々しい場面であるし、こんなに嫌なシーンをよくもこう粘り強く長回しできるものだと賛辞を送ることはするにせよ、これによって「有能だが頑固者」という教授のキャラクターはこわれて「場当たりで自分勝手なバカ」という悪いイメージの象徴になってしまった。同情をもてなくなってしまった。

個人的な問題をどんどんあらわにしていくのが後半の筋書きで、そこには両親の離婚、精神病の父、うつ病の薬を飲んでいること、病気で体臭が出てしまうこと、女性嫌いであること、などが含まれている。どれも誰にでも起きることで、それを恥ずかしがる必要はありませんよというのを映画が周知することはだいじなこととおもうけれども、伝統的に問題とされてきたことは現代では問題にならないということを伝えようとするあまり、抱える問題の多さによって消極的にしかキャラクターの個性を表現できなくなっているのは不幸にもみえる。この子のお父さんは精神病でこの子も困っているんです、というのは気の毒にとはおもうけれども、だからこの子は実はいい子なんです、というのは飛躍してしまっている。問題がおおければおおいほど人間として深みが増すと言おうとしているようにみえて、それは人間に対する正当な評価ではないとおもう。

そして「有能だが頑固者」ではなくて「場当たりで自分勝手なバカ」と評価を変えたハナム教授のおおきな嘘がもうひとつあらわになってしまう。実はハーバードを卒業できていなくて、学歴詐称のまま高校で教えているのだ。わたしの論文が剽窃された! 相手の親が金持ちだったからこちらが剽窃したことにされて退学にされた。ひどい話だ! と言い訳をするけれども、さっき統計の先生を相手に口からでまかせの大嘘をついたのと同じ口から出る言い訳を信じたがる耳はもはや客席のぼくには備わっていなくて、いや本当にあなたが剽窃したんじゃないの、という疑いを拭わせるだけの信頼は彼にはもうなかった。そもそも学位をもたないで不正に教えているが、わたしは「事実上」ハーバードを卒業したのだから教える資格があると信じこんじゃってるひとなのだから、余罪は掘れば掘るほどでてきてしまいそう。ちょっとした頭のよさを自己正当化のために使う人格の持ち主だと終盤に明らかにしてしまうキャラクターが、中盤までは倫理的に高潔なキャラを演出できていたのだから、たいしたものではある。しかしこれでは不器用な善人どころか、罪の自覚もない最悪の詐欺師じゃないですか。完全に脚本が混乱しきってしまっているのをみた。

登場人物に悪気はなさそうにみえるのだけれど、悪気がないことによってかえって手のつけようのない巨大な悪を誕生させてしまっているのに救いがない。ひとつ前に見た『ザ・バイクライダーズ』でモータサイクルクラブを堕落させたのも、きっとハナム教授みたいに場当たり的な二枚舌を使っちゃったり、悪意のない悪意が悪を根付かせた結果のたまものなんじゃないかしら。なんていじわるな批判をこめた目を向けてしまった。

1970年の東海岸のクリスマスの雰囲気を再現することに成功していそうにみえて、ぼんやり眺める映画としてはそんなにわるくないようではあった。なんとなく引っかかったところはあり、引っかかった理由を手探りで追及して邪推するに「人間とは弱さがあってこそ光るもの」みたいにおおざっぱで浅ましさのある作り手の人生観に問題があった。そう思わざるをえなかった。

ボストンの夜にアンガスがにぎわいのなかでたのしそうにスケートをたのしむ無言のシーンはよかった。下手でもスケートをやっていいと思い出させるのがいちばんよかった。