会社の同僚が浦和にあってご夫妻でイベントを主催していて、三月の最後の週末にお花見の誘いをくれた。
週中は初夏の陽気とひとがいうほどあたたかく晴れきった日が続いて、土曜日にはそれが急に遠のいた。冷たい雨が朝からしとしとふると気温は夜にかけてじわじわと下がった。前の日にためた熱が朝にはまだ残っていたのを昼までかけて冷やしきる雨だった。
浜松のおみやげのお菓子と、オーブンでできる大学芋をタッパーにつつんで、みんながつついて食べられるようにしてもっていこう。余裕があったら自分のためのサンドイッチもできるように全粒粉のパンも用意しておこう。そうして準備をたのしみにして目をさましたら雨が降っていた。
連絡網として招待されていたディスコードをみて、何日も前から雨に備えて別のプランにランチの会場を確保してくれているのにぼくはまったく気づいていなくて、その日の朝に遅れてすみませんがもうひとりいけますかとたのんだ。浜松みやげをもっていくことにして、サンドイッチはあさごはんにたべた。
おひるの居酒屋さんは北海道のたべものを出すお店で、お刺身とかラーメンサラダとかザンギとかをすこしずつ食べた。お酒はひかえてゆずとかぶどうのジュースを試した。
ぼくの就いている職業に就きたいといま訓練を受けているすこし年下のかたがたがみえていて、不安はあっても前向きに顔をあげているのが心強かった。ぼくもこうして前向きに飛びこんだ向きだったはずで、悪いものだけでなくいいものもたくさんみてきたはずが、清濁あわせのむということをうまくできないでいて、ぼくが励ますよりも励まされる立場でいるのをすまない気持ちでいた。
小雨のなか武蔵浦和の駅からのびる遊歩道をあるいてちかくの沼のある公園をめざした。そこでほんとうだったらピクニックをして花をながめるもよおしであった場所に、せめて歩いて近づくだけはしようというもの。冷たい雨雲はあっても桜並木は咲いていて、気分で歩いても往来はすくなくてのびのびしていた。
遊歩道の縁にイラストつきの案内板がいくつか立っていて、前向きな女の子の絵をみせている。人生の無垢な機知を添えたその絵柄のスタイルはパートナーのラップトップに貼ってあるステッカーとおなじだった。おや、とおもいながらたまにあらわれる案内板をちらちらみると、見覚えのあるステッカーそのものの絵柄さえみた。写真に撮って送ってみせた。マムアンちゃんとその女の子がいうことをおぼえた。
ひとしきりみつけては写真を撮りながらあるいた。行進からはだんだん劣後してしまった。なにかにおびえる自分の姿を鏡にみた気がした。ぼくにはぼくの歴史があっていい思い出もたくさんあるのに急にかなしくおもってしまうこと。どうにもならない気鬱は天気のせいにでもしておけばよさそうだけれど、無色透明な毎日がただすりぬけるだけのように頭がとまってなにも感じられなくなるのにくらべたら、悲嘆であってもないよりはましなんだろうか。悲しさはたのしさの反作用ほどのものとおもうことができればいいだろうか。桜の花が散るのを風情というより痛々しいおしまいの表現にみてしまっているだけなんだろうか。
花より団子か一献とはせずに、ここにないものに思いを馳せる花をみる花見はすばらしい花見におもった。