東京・春・音楽祭の東京文化会館でのプログラムで、キリル・ゲルシュタインのピアノ独奏会を聴いた。

ゲルシュタインはソ連出身で、90年代はじめに若くしてゲイリー・バートンに見いだされてアメリカンジャズの道にはいったあと、そのままニューヨークでクラシックに転向した。というようなことをいっているポストをみておもしろそうとおもったのだった1

いまではドイツで活動しているんだという。ドイツ大使館がプログラムを後援してもいる。ロシアとアメリカとドイツ、ジャズとクラシック。手懐けることのむずかしいスタイルを手懐けておおきい音楽家であるようす。ゲイリー・バートンの生徒として、チック・コリアとかブラッド・メルドーともはたらいてきたらしい。

前半はシューマン。シューマンの「花の曲」と「謝肉祭」ではさんで、トーマス・アデスのちいさい作品をひとつとりあげる。アデスはイギリスの作曲家。聴き慣れていない作品のきれめは見失いがちだった。

ショパン風のきらびやかな曲がはじまったとおもった。これがアデスか。二曲、三曲、四曲。聴き覚えのある旋律もちらほら。いつまでも続く小曲の列とおもわれて、もしかしてこれはもう「謝肉祭」がはじまっているかしら。アデスはとおりすぎたのかな、でもいまはもう止まらない音楽をぼくはもう聴き続けることしかできない。

第何曲か数えることもできなくなると、かえってそれがはたらこうとする頭を脱落させて、ただ音響にひたらせるのをうながした。バンと叩いた大音響のピークでダンパーペダルをおもいきり戻して、まるでミュート装置みたいにあつかった。きしむ倍音の束が断末魔のように鳴ってなかなか消えないのをおそろしい心地で聴いた。メロディと超絶技工のどちらも堪能した。

後半はクルターグ、アデス、ラフマニノフ。このようにしてはじまった。まず六十秒かけて、五個か十個の不協和音のペアをねっとりと響かせる。だんだんもりあがって、低音をウゴウゴ連打するとそれまでピアノの音像を装っていたものは自壊して金属をギコギコこすって殴る像をあらわにした。

チャイコフスキーの「花のワルツ」がそのあとに続くと、それは口直しのようでもあった。リズムを自由に書き換えながら進んでいくやりかたはおもえば異形だったかもとおもいだしても、乗り物酔いをさせないように彼のスタイルはこちらの耳をすでに馴致していた。

コーイ、ラヴェル。やがてアンコール。おだやかな声で「ラフマニノフのメロディ」といってひとつのアンコールをひいて、ふたたびカーテンコールのあとのもうひとつのアンコールではショパンといってひいた。つやのあるダークスーツをお召になって、ピアノにかけるときに左手でボタンをほどいてひく。立ち上がっていちどおじぎをして、もういちどおじぎをして、下手にさがるためにターンしながら長い腕でボタンをしめて格好よく去った。

プログラムの全体像はこうだった