『暴走族のエスノグラフィー』は1984年の出版。佐藤郁哉さんは社会学の先生で、これはきっと第一作なのだとおもう。略歴をみると、シカゴ大学で社会学博士をえる前々年にこれを出版なさったよう。研究というのはこうやって一冊の本にまとめることができるものかと読んだ。

区の図書館には所蔵がなくて近所で読む機会がもてなかったのをオンライン書店で注文して手にいれていた。しばらく書棚に挿していたあとで不意に読みはじめたのはモータサイクルクラブの結成と盛衰をみせる『ザ・バイクライダーズ』をみたあとのことだった1

冒頭章はフィールドワークの成果を紹介するのにルポルタージュのやりかたを導入しているよう。京都の族の少年たちのいきいきした会話の引用は、紋切り型の青春群像のようにみえて、生々しく聞こえる。すぎた青春のまぶしさとはかなさがすでにみえる。即興的な声があふれていることが、分析的な地の文体をしてリズムをはねさせているよう。

現に読み物として熱中して読ませる推進力が第一章にはあった。暴走行為、というより、公道をバイクで走ることに含まれる独特の緊張と弛緩をよく描いている。族の若者の感覚的な表現を研究者の手際が整理するやりかたが好ましい作用をつくっているようす。

特に「フロー感覚」を学術語として援用するところに目をひらいた。濃密な没入や没頭の感覚のことを「フロー」と日常語としてよぶのを次のように抽象化したのは、チクセントミハイという研究者の手柄なのだという。6つの特質の表現を、ぼくは自分のためにこう言い直してノートをつくった

  1. 意識と活動が融合すること
  2. 注意力が強く集中すること
  3. 自己認識とか自我を喪失すること
  4. 状況や活動をコントロールしている感覚を得ること
  5. 活動の成功と失敗が感覚的に明らかであること
  6. 活動に自己目的的性格が備わっていること

ゲーム性といってもいいようだ。バスケットボールでも、チェスでも、ロッククライミングでも、プログラミングでも、バイク運転でも。フロー感覚がなんであるのかは感覚的に自明なことで、そこへなら主体的に参加したいと思わせる魅力がこれらのゲームに備わっていることもわかる。

暴走族にとっての公道走行の自己目的的なよろこびに、勉強と労働が対置されて描かれる。その図式をとおして、勉強と労働は人生にとって必要な犠牲とはじめから諦念している様子が暗に示されているのもみえる。やりたくないものをいちど甘受したあと、やるせなさのはけ口に暴走している。やりたくないものを拒否して暴れているのではないところに、見るべきところはあるのかもとおもう。暴走によって幼さを表現しなおす必要にせまられていた集団が存在したことは、いまよりも幼くない社会が存在したことを暗に示しているようにもみえる。

ルポルタージュの手法をひとしきり示したあと、メディア論や演劇性を解析していく章がつづく。それらも読んだ。テレビ報道のことをインターネット報道とかに読み替えると、いまでも有効なはなしをしているかもとおもった。ぼくはいずれあまり関心をもたなかった。別の関心をもって読むおりには有効ではありそうとおもったけれど、ぼくにとってはいまではなかったようだ。

暴走族がいくら反抗しても、既成の価値体系の強化に力添えをしているだけで、系の撹乱にはおよびもしないという話題が結末部にあった。特攻服、改造キット、ステッカー、ポスター。ある決まったルールのなかで個性を演出するとき、個性の表現は消費によってしか実現できなくなっている。個性を演出させるためにイメージは紋切り型の商品として硬直化する。つっぱり系タレントとか、なめ猫ブームとか。

そして社会からの逸脱者があらわれること自体を社会は準備している。逸脱者に帰り道を用意している。逸脱者は流離のあと成人とか結婚の儀式によって社会に還る。暴走族の参加者たちもまた、暴走行為は若者のためのものと認めて、社会が準備した儀式を経て卒業することにためらいがない。

メディアと持ちつ持たれつで紋切り型の自己表現ができれば満足で、社会に対する破壊力はあらかじめ去勢されている。若者の一過性の反発と合意された活動は、ちょっとした思いつきが日常の外にもうひとつの日常をつくったくらいにとどまって、ほどよく管理をはずれているが、ほどよく管理のもとに安住しているともいえる運動だった。

いまでいうところの、スタートアップ企業に憧れる若者という感じかもしれない。堅実な勉強や労働を都合よく否定できてしまう価値体系がそこには備わっている。そこを走るひとは逸脱者であることを強気にボーストしたりもするけれども、伝統型の下部構造によりかかっていることは明らかでもある。世界のなかに自分の居場所がほしいと強く願うことはいまも昔も変わらないというだけのことでもあるようにもみえる。