積極的とも消極的ともいえないあいまいなやりかたで間接的にこの本が言及されているのを二度みた。図書館で借りて目をとおすと、たしかにあいまいな処置しかしようのない感覚を残す本だ。
著者は物理専攻をドロップアウトして、若くしてベストセラー作家に転向した経歴のよう。理系研究者というタイトルへのこだわりは強くあるようにみえる。そのいっぽうで「要するに」という飛躍によって大筋の理解をうながすやりかたで伝える立ち回りは、いかにも世間が望んで支持する人気教師の像とみえて、学問的誠実の軸は一般の研究者のものとはすこし異なった場所にあるようにみえる。
硬派なタイトルと装丁にみえたものだった。ある学者がかれのとは異なる畑をみて直観にもとづいて語るのがすばらしい作用をみせたのは岩田慶治『道元との対話 人類学の立場から』を読んだ経験が強く印象に残っていて1、それに似たものを期待してぼくはこれを手にとったようだ。それに反してどうにも軽い印象はまえがきからあらわれていた。そそっかしくて好ましくない文体だとおもった。それらしい断定をゴシック体で印刷してたたみかけるやりかたは詭弁家の技術にみえた。理解をうながすというよりも、理解した気になることをうながす。そうすることによって奇妙な自信をあたえる。そういうやりかたは大学受験の特別コースかなにかで、みなさんは優秀なのでこのレベルのはなしをしてもいいでしょう、とでもいうように話題を切り出して、生徒の自尊心をくすぐりながら、同時にそれを教える教師自身の自画像にも歪んだ自尊心を描き加えるための詭弁にみえたものだった。
啓蒙思想家というのはこんなだったかなとおもわせた書きぶりは、いまでは啓蒙思想家というよりは教養系インフルエンサーというのがたぶん近い。次から次にあたらしい話題にジャンプして飽きさせないようにする。知識を受け取らせることよりも、知識を受け取った気にさせることを目標にしている。話はおもしろくみえても、どこか不誠実の疑いがのぞいて拭えない。
脂質ばかり高く栄養価にとぼしい食事のようなもので、口にすれば止めるのがむずかしいこともわかる。こういうものばかり食べていてはいけないとおもうが、いちど口にいれて飲んでしまったら吐き戻して汚すわけにもいかない。これひとつを消費してぼくはそれでおわりにしよう。あしたからはちゃんとした食事に戻すけれども、きょうだけは悪い栄養のドカ食いをして、それきりにしよう。そうおもってなるだけ気軽な読書をした。
こうしてあんまりたのしい気持ちで読みはじめたものではなかったけれども、読みおおせてみればいくつかのもののみかたを新しくする契機はふくまれていたとおもう。不誠実にみえた書きぶりも、単にぼくにとって見慣れない種類の性質によるものにすぎなくて、どうも独特な誠実さを示そうとする努力はあるようだと印象をあらためた。偏見はこちらにあったようだと認めてしまうことができるのは、恥と爽やかさの混ざった後味を残した。いくつかの断片の印象を写しておく。
ひとつに、資本家と労働者が相克するというマルクス式の構図に替えて、投資家と企業家と労働者の三すくみとみなすやりかた、これはたしかにぼくの直観にも符合するとおもった。資本家階級が存在して自己資本で生産をおこなうというよりも、借金まみれの企業家がひとやま当てるのを夢みて成功したり失敗したりするというのが腑に落ちる。
経営は自己資本ですべしという哲学はいまとなっては何世代も昔の貴族階級にだけ属するもので、とくに経済の中心がイギリスからアメリカに移ったあとでは借金のおおきさがかえって経済を膨張させる傾向を強めたという直観も腑に落ちる。企業家にかぎらず無借金を美徳としない文化がアメリカにあって、それがアメリカの経済の強さの秘訣といわれたとして、ぼくはあまり疑うことはできないとおもう。
ふたつに、農業は需要喚起力に限界がある。商工業は需要喚起力がほとんど無限に伸びる。それで第一次産業は第二次産業へ、第二次産業は第三次産業へ避けがたく移行する。ペティ・クラークの法則とこれをいう。これは資本主義の図式的理解の一側面であるようだ。ただしこれでは欲望による荒廃はいちど進めば二度と戻れない道のようにみえる。
尽きない欲望を徹底的に弾力化したあとには荒廃があるだけのようにみえるが、それで終わりなのだろうか。そうとはせずに、ふたつの社会が農本主義によって反動をうまくやりおおせたと語る。それは興味深いとおもった。
ひとつはローマの荒廃について。ローマ共和国が瓦解して帝政に移行してからこっち、富と権力は不均衡を増すばかり。商業からはじきだされて没落した市民の倫理は退廃した。イスラーム勢力に商業の主導権をうばわれたあとのヨーロッパ社会は上から下まで農業くらいしかやることがなくなった。農業から出直すうち、封建社会の道徳が形成してモラルの立て直しに成功した。
もうひとつは徳川幕府について。武家の台頭からこっち末法の世が永遠に続くとおもわれたあと、徳川政権がとにかく鎖国、金よりも米、商業よりも農業、といって締め付けて平和を立て直すのに成功した。最後には維新によって否定されるにせよ、農業をもって商業を抑制する安定政権が二世紀半つづいた。
いずれの逸話も、農業が商工業にたいしてかならず劣位にあると誤認させるのを拒絶している。かえって、そこに立ち返ることのできる産業の土台としてかならず伏流するものに農業を見立てているととった。社会全体が食欲よりもおおきな欲望のためにより低次の産業を蔑んでいることの問題はそれはそれとして、欲望を有限に引き戻すことはあるいは不可能でないというのが気を紛らしてくれる。
章を追うごとにだんだん誠実さをとりもどしていく本。あらためて序章のエッセイめいた導入を読むと、ひどくできの悪い作文であることに変わりはなくみえる。終盤にいたって、物理学から借用したメタファーを縦横無尽に援用する準備がととのえば読み物としてのおもしろさはようやく発揮されるいっぽうで、導入の弱さはおなじ手が書いたとはおもえない。背伸びをしているのが透けてみえてしまうと読み味はわるくなる。そうはいっても、これは誰にでもおちいる危険のある陥穽だから、責めるというよりは他山の石にしよう。
自分は非正統の議論を述べているとどこか自覚しながら自分なりの理論を熱心に語る。そのやりかたに狂気というよりはいくらかの誠実さを読み取ることもできる不思議な本で、ぼくはなんとなく好ましくおもった。