ひさしぶりの定期演奏会でNHKホールに出かけた。
パーヴォ・ヤルヴィの指揮になるプログラムは、ベルリオーズの交響曲「イタリアのハロルド」とプロコフィエフの交響曲第4番の二本立て。前者はビオラの独奏をともなって、ソリストはアントワーヌ・タメスティさん。フランスのビオリストは、まだ五十歳の手前にして当世随一の名手としての経歴をもっているよう。
オーケストラが登壇して、続けて指揮者が登壇する。でもソリストはいない。指揮台の左にソリストのための空間はあいているのに、ソリストがいない。ビオラのための交響曲「イタリアのハロルド」はそのまま主役を不在にしてはじまる。
オーケストラが統制されて機能しているところへ、ビオリストは楽器をぶらさげて、いったいここはなんという森だろうという身振りをしながらあらわれる。芝居がかっている。演劇的なパフォーマンスをともなったこの名手は、指揮台のそばの定位置に向かおうともしないで、オーケストラのあいだに足を踏みいれて、ハープに寄り添う位置でハープとビオラとのデュオではじめて音をきかせる。
消え入りそうな微弱音がおそろしく優美に鳴った。これほどはかない弱い音をこれほど明瞭に鳴らしてホールに染み込ませることのできること。演奏家はかれの圧倒的な技量をはじめの一音で完璧に示した。なんと雅でとろける音なんだろう。演劇がいちじるしい注意をひいてオーケストラは後景にしりぞいてしまったけれど、こんなソロを聞かされてはたちまち脱帽となる。
演劇性を込めたのはソリストの独創的性分だけというのではなくて、この「イタリアのハロルド」という演目がバイロンの長編詩を題材にして、主人公の冒険活劇をビオラになぞらえて描こうとする趣旨にそぐわせているという様子でもある。キテレツにみえかねない演出的冒険もおおいに受け入れられているようにみえた。すばらしい技量がすばらしい独創としあわせな結婚をとげた。
ぼくは前の年にロサンゼルス・フィルをみたときのこと (2024-10-04) をおもいだしていた。メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」のコンサートプログラムで、ドゥダメルは俳優をステージにあげてオーケストラのあいだを駆け回らせた。さすが海外のオーケストラは画期的なことをするなあと、ぼくは芸術を説明するのに国境をつくっていた。
この日のN響はそれに並んで、もしかしたら上手さえ取ったかとおもった。奇をてらったかという疑いの余地を演奏力によって征服した。おもしろい企みがあるなあとおもって、文句なしにたのしませてもらった。満足です。独創に喝采で応えるひとのおおかったことも気分をよくさせた。
アンコールで、バッハの無伴奏チェロ組曲第1番より「サラバンド」をビオラできいた。これもおもいきり聴きごたえのあるソロだった。
後半はプロコフィエフの交響曲第4番。グランドピアノを指揮台の正面に配しているのがめずらしい景色をつくっている。
第1楽章であらわれる、騎兵の進軍をおもわせる勇壮なモチーフが耳にねばってよく聴こえた。勇壮といって、たしかに男らしい硬質さのイメージがきこえるのだけれど、直線的なリズムのうえで鳴っているバイオリンは調子っぱずれの諧謔もともなってきこえもする。かといって、嘲っているのでもない。
ドン・キホーテが騎士にあこがれてどうしようもなく愚鈍であるのと同時に、かならず騎士として命を燃やしきりたいと信じてつとめる心のかぎりない清らかさをまぶしくおもわずにはいられない両義性、それが無言で突きつけられたようにおもった。諧謔といってひとことで片付けられるものではなさそうだ。そこにないものの名前をひとつあげるならば、冷笑がそれとなるか。
プロコフィエフのことをぼくは作品も経歴もほとんど知らずにいた。このひとつの交響曲をいきなり聴いて、このひとはなにかぼくにとって重要なことをいい遺そうとしたひとではないかと直感におもった。もっともっとよく知りたい。でも怠惰がそこで足を止めて直感をとおりすぎさせてしまうのもいつものことなんだな、これが。
もし無人島に連れ去られることが運命づけられて、そのときになにかひとつだけ持ち込んでもいいぞとシュールな交換条件を出されたら、きょうのぼくはプロコフィエフの作品集を持ち込みたいというかもしれない。それで無人島でひとりプロコフィエフが残していったものを相手に無言で語り合うのだ。そういうことができたらどんなにいいだろう。
どんなにいいだろうとおもうなら、無人島に連れ去られるのなんて待っていないでそうしちゃえばいいんだけどね。でも弱い心根はもう十分に豊かなはずの世界を黙って受け取ることができなくて、なにかを生み出そうとせずにいられないエゴの衝動にとらわれている。なにかに隷属していて、人間はなんでもやっていいと素朴に信じることができなくなっている。わたしは自由に値しない、自由であってはならないと執着している。どうやら隷属を心地よくもおもっている。きびしいことだ。
雨の日曜日だった。ホールの入口で傘をしまうビニール袋を配布していた。その景色ははじめてみたとおもう。それくらいいつも天気にめぐまれていたということかな。