土曜日、初台。バッハを聴きにおとずれた。
マタイ受難曲は、イエスの最期にまつわる聖書の語りを音楽にあらわしたもので、礼拝で聖書を朗読するのと似たように機能する。全編がドイツ語で歌われる。ルター訳のマタイ福音書にもとづいていて、口語に根ざしながら高雅な修辞をもっている。
バッハ・コレギウム・ジャパンは、国際的なオルガニストの鈴木雅明さんが主宰するバロック音楽のための楽団で、オーケストラと合唱団を擁している。鈴木さんは演奏家であり、指揮者であられる。研究者であり、宗教家でもあられる。
休憩をはさんで三時間半の長丁場は、イエスが死へと向かう最後の3日間を朗唱する。福音書の聖句をテナーが語るように歌っては導く。イエス、ペトロ、ユダの役回りはそれぞれ男声ソリストが語るように歌う。それとは別に、福音書にはない叙情テキストがある。あるものはソリストによるアリアの技工によって挿入される。あるものは合唱団によって、聴衆になりかわったイエスへの帰依の表明に挿入される。
知る人ぞ知る音楽家として記憶されるばかりだったバッハ。死後は忘れ去られていくばかりであったバッハ。百年かけて朽ちていたマタイ受難曲を、若い天才のメンデルスゾーンが蘇らせたことによってバッハの再評価がはじまったという逸話はよく知られている。
イタリアではなくドイツ。カトリックではなくプロテスタント。差異によって国民意識を定義して強い国家を作り上げようとする時代の動きに呼応して、バッハは清貧の民族的英雄として発見された。再発見と再評価に最大の貢献をしたメンデルスゾーンに、ナチスの御用学者たちは皮肉な憎悪で報いた。
小林義武『バッハ復活 19世紀市民社会の音楽運動』にこうした話が書いてあっておもしろく読んだのは、書店の注文履歴をみると2021年のことのようだった。この本にマタイ受難曲のことを教わって、いつかは聴いてみたいと夢想したその機会は、2025年の復活祭のちょうど前の、この土曜日だった。
会場ではプログラム冊子を別料金で販売していた。新国立劇場のオペラ公演に比べてもかなりお高い価格にみえた。ドジャースタジアムで大谷選手のレプリカユニフォームの値段をみてびっくりしたのをおもいだした。ドジャースタジアムとおなじようにした。つまり、一生に何度あるかわからない機会にけちんぼになるのはやめようと踏ん切りをつけてひとつ手に入れた。
このプログラムは独日対訳をすべて含んでいる。これがなにより使いやすかった。もとよりドイツ語を耳でだけ聴いて心で自然に理解するほどの語学力はないが、音をとって指で一語ずつ追いかければ、読むことのできるところはあんがい多い。これはルターの翻訳の偉大さのおかげにもなる。むずかしい表現があらわれて頭が止まってしまったら、隣の列で和訳を読めばなんとかしのいですぐもとに戻ることができる。これはプログラムのおかげさまになる。和訳は鈴木さんがみずから筆をとられたようでもある。なんと熱心なかただろうと平伏した。
コンサートというのとは違う体験だった。少なくないひとにとってはクラシックのコンサートであっただろうし、また別の少なくないひとにとっては礼拝にあたる行事だっただろう。ぼくは礼拝の謹厳さをもつことができたかどうかはわからないけれども、福音書のテキストをこれほどゆっくりと吟味しながら読んだことはかつてなかったようにおもう。信徒の心がけを補足するアリアとコラールの詩は、音楽が反復するだけいっそう長く舌で転がし頭にいきわたらせて、イエスのあわれみがゆっくりと身体に浸透するのを感じさせた。
バンクーバーで友達に連れられて礼拝におとずれたときもあった。ベルリンで聖堂に通っては説教に浸ったときもあった。悪いおもいをさせられたことはいちどだけあって、そうでないときはいつも受け入れてもらえていたとおもう。信仰があると告白する勇気のあるひとがいる。信仰があるとはどういうことだろうと考えていつまでもゲストでしかいられないひともいる。後者により近いのがぼくであるようだ。
聖書の言葉をよく読んで、詩が身を支えるのにゆだねること。それがぼくにはしっくりくるようにおもう。信仰心というのを単に倫理観と読み替えてもいいのかもしれない。そのほうがしっくりくる気もする。あるべき存在になるための基礎を失った根なし草の姿を自分に重ねて、そこから救われることを想像してやすらぐこともあるかもしれない。
私の頬を流れる涙が、
なんの役にも立たないのでしたら、
おお、どうぞこの心をとってください!
しかし、その心を、
主の御傷から血の奔流が惜しみなく溢れ出るとき、
それを受ける捧げ物の受け皿としてください。
イエスの血は滴るのではなく水のごとく注ぎだされる。イエスを殺したわれらの祖先は血と罵声をあびた。血はわれらを呪い、また恵みを約束した。罪があればこそ許されるというのは、悲しみでもって豊かさをはかるのに似ているかもしれない。お前の罪のおおきさを知れ。そして神の恵みのそれよりおおきいことを知れ。
崇高なるものの受容をぼくはこう定義していた節がある。崇高はぼくがそれに触れたときにぼくのなかにこそ生成する。すでにあるものをおおくのひとが触れたようにぼくもまた触れるのではなく。おなじ体験がどこにもないのだから、先行する評釈も存在するはずがない。ぼくはぼくなりのやりかたでぼくの体験をぼくのなかに位置づけるしかない。コンテクストに支配させない。すなわち、作品をいつも即物的に見つめるよう自分に課していたということになるでしょうか。
マタイ受難曲をおなじように即物的に聴いて退屈におもわないことはむずかしいだろうとおもう。言い換えれば、元も子もないことをいうけれど、言葉のコンテクストがすこしもわからないで聴いてもどうにもならないんじゃないかとおもう。
原語の注釈がなくてこれを聴くのは、知らない外国語の映画をみて、字幕がついていなくてもなんとなく話の筋を追うことができるというのとは、てんで話がちがいそう。ただぼんやり聴いて眺めてもなににもならない。言葉の導きがあってはじめて成り立つ音楽を聴くのに、音楽だけを抽出して聴くことはできない。
音楽は音楽だけで自立しない。音楽が信仰に支えられているとするのはいい。ただし信仰を支えるものは、音楽よりも言語とみた。人間は徹頭徹尾、言語でできている。人間はただ言語によって作られている。
Aber Jesus schwieg stille. / しかし、イエスは沈黙を守られた。
光あれといって光をもたらす神のわざ。それさえ言葉が支配した。呪文がその光をさきがけた。言葉は呪い。言葉は恵み。神はマントラ。
存在を認めるものには愛の言葉を。そうでなければ沈黙を。