土曜日の晩にNHKホールに定期公演をききにいった。指揮はファビオ・ルイージさん。演目はマーラーの交響曲第3番。巨大な作品ひとつを休憩なしで走り抜ける骨太のプログラムだ。
内容はかなりまずかったとおもう。ちと我慢ならないくらいだった。失態のおおきさはそれによっていままでの評判は誇大広告に過ぎなかったと転じてやむをえない規模のものだったとおもう。
解釈とか表現の水準のものではなくて、技術的なトラブルを解決できなかったということが全編を通してあった。エラーを多発して目も当てられない様子は、高校野球のかわいそうな試合をみている気分だった。金管が悪かった。ピッチとリズムがぴたりとハマらなくて苦しそうなのは冒頭からそうだった。徐々に温まって改善するだろうとおもって待ったあと、最後まで直らなかった。改善するどころか悪化していた気もした。
アンサンブルは濁ってばかりいた。わずかなあいだ濁らずにいるときも、次はいつ濁るだろうとおびえさせられて、実際また濁った。
はじめのあいだは「さすがにもうミスはないでしょう」とおもっていた耳が「次はいつミスするだろう」という耳に変わってしまったら、すでに音楽をきくことはできなくなっている。不毛さはこういう失望に似ていた。映画館にいたらおなじ並びに悪い客がいて、最後まで目障りで映画をまったく楽しめなかった。ゲストハウスに泊まったら上の階から夜通しで足音が聞こえて、やっと消えたとおもったらまた始まって、最後まで眠れなくなってしまった。やるせない怒りというのにも近い。
微弱音をきかせるところではほとんどかならず、リズムの遅れかピッチの乱れ、それか両方があらわれて、がっかりした。おおきな音でごまかしをきかせて、微弱音を出せないというのは、素人芸の特徴を備えてしまっているなといじわるに聴いてしまった。そういう耳を持ってしまっているのもいい気分ではないけど、そういう耳を悪くやしなう演奏になってしまっていた。このまえ聞いた、アントワーヌ・タメスティさんのビオラソロは、もっとも弱い音をホール全体に響かせて、あれこそ達人技だったなとなつかしくおもいだした。
カーテンコールは大喝采だった。そうなのかとおもった。よくいえば外しの美学なのかもしれないけれども、批評的ニュアンスを含んであえて濁らせたというのではなくて、エラーを収束させられなかったというのがぼくにとっては自然な受け止めだった。ミスをミスと聴かせないための説得力があると受け取ることのできたひともいたようだ。
バイオリンソロはよかった。少年少女合唱団もよかった。カーテンコールのあと、オーケストラが舞台からひとしきりはけたあと、合唱団のひとりひとりが行儀よくさがっていくのに最後まで拍手をおくっていたオーディエンスの姿がいくつかみえたのもよかった。
このプログラムを携えてアムステルダムに招かれて、ベルリン・フィルとかロイヤル・コンセルトヘボウと共演するということで、力のはいったプロダクションだったみたいだ。ステージには首席指揮者がいて、コンサートマスターがふたり並び立って、各セクションには首席奏者がもれなく並んでいたようだ。そういうおおきい期待感があってこそ、技術的な課題のおおさに失望してしたのは自然なことであったかもしれない。
これから本番を迎えるまえの最初のパフォーマンスで、まだウォームアップができていなかったのかもしれない。いつもは二日目の公演のほうを聴きにいくところ、この週は次の日から伊豆に出かける予定を立てていたから、一日目の公演に振り替えておいたのだった。
リハーサル不十分で出てきてしまってはいけないし、本番中に修正できないのもだめだとおもう。肝いりのプログラムでこれが起こってしまったことは残念というよりなかった。そうはいっても、次の本番までに修正してこられないほど粗末ではないんだろうとおもう。弘法も筆の誤り。
演奏会が夜にあるから、午後のうちにガソリンをいれて旅行の準備をしておこうとした。首都高をちょっぴり走らせて感覚をたしかめたあと、近所のスタンドで給油した。その帰りのわずかなあいだでゲリラ豪雨におそわれて、雑巾みたいにずぶ濡れにされた。死ぬほど嫌な気分で家について、シャワーで流すあいだに雨はやんでさんさん晴れに変わっていた。
なんていじわるな天気なんだろうねえとおもった。それから出かけたせいでいじわるな耳になっていたということもあったのかもしれない。いい気分と呼ぶにはむずかしい時間だったけれども、それもそれなりに独特に充実していたとはいうこともできそうだ。