寝る前に気軽に読める娯楽小説がなにかないかなとおもって、スティーブン・キングをはじめて読んだ。

図書館で探して借りるときに、この作家の本はこれまで読もうとおもったこともないのに、もうあらすじを知っていそうなタイトルばかりだとおもった。それだけ映画化済みの作品がたくさんあるということ。

この『ザ・スタンド』は映画化されて有名になった話は知らないが、初期のキング作品で人気があるものとして名前を聞いたことはあったような気もした。先入観なく読んでたのしめそう。それならこれにしようとおもって、上下巻になっているものを閉架から取り出してもらったら、上巻だけで八百ページがびっしり二段組で埋め尽くされている超大作だった。一般書架にあったら尻込みしてあえて選ばなかっただろう。それを閉架から取り出してもらってしまったから、ひとまず借りるしかない。借りてしまったら読んでみるしかない。そういうやりかたで偶然に読んで、ひとたびリズムに乗ったらあとはほとんど夢中になって一気に読んだ。

テキサスのガソリンスタンドに乗用車が侵入してきて事故を起こす。乗っていた家族はもう死んでいる。そこに居合わせたテキサス男たちが主人公で、ガソリンスタンド発の冒険譚だから『ザ・スタンド』なのかなとおもったものだった。しかしテキサス男たちのうちスポットライトを浴びるのはひとりだけだ。

たった一週間でアメリカが崩壊するのをいくつかの視点でねっとり描く。複数の視点をいったりきたりしてながら、最後にはみんなだめになるだけの人間関係をじっくり読ませようとする。それが上巻のほとんどを占めている。むずかしいコンセプトはほとんどなく読みやすいはずなのだけれど、あれもこれも網羅的に入れ込もうとしているようにのが苦しいところだった。ほんとうにたのしくなりはじめるまでにはかなりのエネルギーを必要とした。

わくわくする勢いを切断して介入する操作がおおいのが上巻は苦しかった。たとえば、ラリーの物語がおもしろくなってきたところで急にチャプターが切断される。ニックの話に飛ぶ。ニックの話がおもしろくなってきたところで切断される。フラニーの話に飛ぶ。フラニーの話がおもしろくなってきたところでまた切断する。スチューの話に飛ぶ。そのやりかたが「おたのしみはコマーシャルのあとで」みたいに鬱陶しい遅延行為にみえて、うんざりすることも少なくなかった。

終わってみれば、そこで登場人物のバックグラウンドを詳しく伝えることで、山ほどいる主要キャラクターのひとりひとりに顔と声をあたえていたのかも。それでいて、下巻はひとつのおおきな犠牲の物語のためにその顔と声を生贄に捧げて、力技で締めくくりにしてしまったという印象もある。たとえば、こつこつ描かれてきたラリーの魅力と成長は、最後にはわりと消化不良のまま使い潰されてしまった気がした。いっぽうで、こういう愛着をラリーにいだかされた、それくらいうまく魅力をよく表現していた、ということも思い知らされる。ラリーのほかにも、死線をかいくぐって冒険するトム・カレンから目を離すことはむずかしくヒリヒリいって読んだし、ぼろぼろになって帰還したスチューがあたたかい愛情を受けるところでは素朴な感動があった。

ぺらぺらとよく口のまわるひとがいるみたいに、手がよく動くのにまかせてどんどん書きまくることができて、勢いを助けに作品をなりたたせられていることに特異な説得力がある気がした。悪くいえば底が浅いということになるけれども、浅いからつまらないという感想をもつことはなかった。めっぽうおもしろく読んだし、深みを求めていたわけでもなかった。

たとえば信仰の力とか神の導きというのを、ほとんどその場かぎりの使い捨てのようにして都合よく導入して、準備も後片付けもあいまいなまま搾りとったらあとは忘れさせる。その腕力はすごいとおもった。信仰のはなしを交えるけれども、信仰は決して主題ではない。おなじように、いたるところに主題の断片はありそうで、どれひとつとっても全体を貫くテーマではない。つきつめれば、ひとつもテーマがなくてさえ、制作はなりたつと言っているようにもみえる。主題がなくても構わないということは、目的がなければ存在してはいけないということへの反論にもみえる。そうおもえば心強いことだ。

「これだけはやりたい」という執着があると、やりたかったはずの「これ」のあまりの小ささに慄然として、かえってなにもやることができなくなってしまう。そういうことはよくありそうだ。その反対に「これだけはやりたい」ということはひとつもない、しかし「あれもこれもやりたい」「とにかくやらせてみてほしい、やってみるから」というやりかたで熱烈に手を動かして、なんかよくわからないけどすごいおもしろいフィクションを作ってしまう。そして誰にでも言えそうなことをほかの誰にも言えなかったやりかたで言ってしまう。それがキングの特異で強烈な立場であるようにみえた。

なにもないところにむかってひたすら文字を書きまくって大長編を実現させるのは例外的な活動量のたまもののようにみえた。ここに実現している作品だけをみたら、こんな仕事はぼくにはできないとしかいいようがない。やるなら荘重にやりたいとおもって、細部にかかずらっているうちに飽きて挫折してしまうというのがぼくのよくあるやりかただから。そのいっぽうで、なににもならないもののために気合を持続させることの汗臭い勇気を知らせるのは、一夜にして夢が叶うのではない、修行と実践だけが現実をつくるのだと明らかにしようとしているようで、たいへんに好ましいとおもった。