いつかは別れるだろうとおもいながらまだその必要もあるまいと延ばし延ばしにしてきたあとそれを敢行するときはあっけなくやってきた。ベッドのフレームを粗大ごみに出した。

なんとなく思いつきで模様替えをしようとして、うまいレイアウトが見つけられなくてもとにもどした日があった。なにかを買い足して解決することはほとんどなさそう。逆に、なにかを手放していくことがだいじそう。あんまりたくさんのもので身の回りを埋めるタイプだとは自覚していなかったけど、減らすよりも増えるほうが速いから、引っ越してきたときよりも単調にものは増えて、スペースは狭まっている。

このシングルベッドのフレームは、たぶん高校にはいるときにあたえてもらったものだとおもう。高校のはじめの一年は学校の近くに下宿した。その新生活をするのに手軽な家具としてやってきた。怪我をして下宿を引き上げてからも使った。地震があって電気が止まった日も。大学にすすんだあとも。日本をはなれているあいだは弟かだれかが使っていたこともあったとおもうけど、なんだかんだとぼくのところにもどってきた。ほんとうのことははっきりしないけど、高校にはいるときからあるというのはそのとおりな気がする。はじめてこれに背中をあずけた日から数えるともう人生の半分よりも長い時間を数えられる。

ずいぶん長く使ってきたなという感覚とそれなりの愛着はあった。もうすこしおおきいベッドでもいいわねとおもったことはいちどならずあった。それでも、新しく消費するためだけにまだ使えるものを捨てるハードルはなかなか越えずに残った。

買い替えるために手放すとはしなかった。いちど手放してみて、敷き布団の暮らしを試してみようとする。暑くなるにつれて掛け布団は軽くなるし、敷き布団をあげる儀式もそんなに苦ではなくなりそう。それで、やっぱりベッドがあると便利だなとおもったときにあたらしいものを足してもよさそう。買い替えるために捨てるのは忍びなかったけど、いらないものを手放してからあらためて必要をかんがえるという段取りなら、結果はおなじであってもいちどに考えることが減って余裕ができる。

去年の夏に背中を痛くしたときに、薄くて折り畳める、背中への負担にやさしいマットレスを手に入れた。オリジナルのスプリングマットレスはそのときにお別れをした。それから一年してフレームもお別れをする。ホコリのたまるベッドの下がなくなって掃除はやりやすくなりそう。ふっと疲れたときになんとなく横になれる場所がなくて疲れが溜まりやすくもなりそう。おおきいものが片付いたという気分はするけど、それで身軽になれたという気分はしないようでもある。

前の晩に玄関の前に出しておいて、回収料金分のシールを貼っておいた。朝の散歩に出かけるときにはまだあった。散歩から帰ってきたらもういなくなっていた。写真を撮り忘れたとおもった。撮ったところでなんの意味も写さないんだけれども。なんとなくの喪失感はこうやってある。書きさえしなければ思い出しもしない、取るに足りないことだ。