電話口では変わらず元気そうに聞こえるおばあちゃんに久しぶりのお見舞いにいったら、すっかりちいさくなってしまっていた。ずっしりした身体はしゅんとして、この前よりも軽くなってしまったにちがいない身体を立ち上がらせることがこの前よりもずっと重そうにみえる。
あんたはかわいかったのにねえ、ごはん粒を顔からどこからそこらじゅうべたべたくっつけてねえ。幼児のころのぼくをおもいだして重ねているみたい。ただ、これは昔からなんども聞かされた情景ではなかった。父からも母からも、ごはん粒のまき散らしで手を焼いた話は聞いたことがなかった。誰もおぼえていないような一瞬がおばあちゃんの頭のなかに不意によみがえったのを感じた。ぼくはよく見守られて育った。
あんた嫌がるかもしれないけど、お父さんに似たねえ、といった。うん、コノスケに似たよ、とひいじいさんの名前をぼくはいった。あら本当だわ。あんた一歳か二歳のときあのひとのとこ行って、両手もってヨチヨチあるきさせるの手伝ってあのひとうれしそうだったわね。そりゃあんたはおぼえてないわよ、ちいさかったもの。
これで全員にあえた。あんたでさいご。音も沙汰もよこさないで心配させて、仕事はどうなの? ハウズ・ユア・ビジネス? 目標はあるの? つまんないことしてちゃだめよ、老人のこと心配させないで。身を固めるってことおぼえなきゃ。でも会えて安心したわ。何歳になった? あなたとおなじ酉年だよ。あら、うちはみんなとりね。
ちいさいシフォンケーキとスコーンを天然酵母で焼いたおかしを西日暮里の駅で売っていたのをおみやげにあげた。これでいいわね、といって、ヘルパーのひとが持ってきてくれたごはんは食べずにいた。フルーツだけ食べるといったけど、それも大儀というようにやっぱり手をつけなかった。口はよく動くし冗談もよく伝わるのだけれど。頭のやわらかさは健在なのだけれど。食べたら吐くからあなたの前では食べたくないと言われているような。プライドのあるひとのことだから。
たのしい人生だったわ。いろんなことさせてもらって。一生懸命はたらいたんだから。あのおっきな壺に大根二百本も漬けたのは忘れられないわね。みんなに食べさせてすっかりなくなってね。昔はすごかったわよ。
心配なのはあんたのお父さんよ。どうしちゃったのかしらね。怖くて話せないのよ。ああいえばこういうで怒ってうわあっていうでしょう、ひとの話きかないでね。昔はあんな子じゃなかったのにねえ、どうしちゃったのかしらね。あんたのお母さんもなにやってるのかわたしには理解できないけど。いまのひとたちはたいへんね。
ずいぶん遊ばせてもらったけど。やることはやったのよ。おじいちゃんとおばあちゃんの介護も面倒見たんだから。
おじいちゃんは寝たきりになって水も飲めなくなったとき、点滴打ってもらっても身体がぷくーって膨らむばっかりで。こりゃもうだめだって最後に利尿剤をひとつ打ってくださいなって打ったら、そのあと何日も、布団のしたまでずぶ濡れになるくらい水が出てね。しおしおになったおじいちゃんの顔みておばあちゃんが「ありゃ、木下藤吉郎じゃ」っていって、あれは傑作だった。
おばあちゃんは、あのひと、百四まで生きたわね。ぼけてしまっていたけど。ぼけても「ありがとう、ありがとう」っていってたのは立派だったわね。あたしはぼけて長生きしたくないわよ。だれかがみて「あ、死んでら」ってころりと死ねたらいいんだけどね。まだ天国語も地獄語もおぼえていないから、どっちおぼえたらいい?
(何人かおられるヘルパーさんのひとりに)このひとは秋田のひと。菅義偉とおなじ村のひとだ。在郷のことばもわかるもの、な?
オートバイやってるの、モーターサイクル? いやだ、あぶないわねえ。二星のところの息子はバイクで死んだわよ。サーキットでやるの? 違うのね。気をつけるのよ。あんたのあのバカバカしいドンキホーテの写真はおもしろかったわね。あんたは持ってないでしょうけどあたしは持ってるわよ。
この部屋に二万円の絵があるの。わかる? あんたのうしろのそれ、あたしが描いたやつ。油絵。へえ、あなた絵もやってたの? 大昔ね。その額縁はずしてごらんなさい、三十九歳って書いてあるから。あんたのおじさんがこのまえきてね、額縁かってきてかけてやるっていうから行かせたら、たけえ〜、二万円もしたよっていって帰ってきてね。だからその絵はあたしの二万円の絵。これがいちばんよく描けた。絵の具のにおいでおじいちゃんが怒って「こんなくさい部屋で飯がくえるか!」っていってね。んだなってやめた。
角館はあんたの弟がつかうっていっていろいろやってるわよ。よかったわ。家のなかのようす写真で見せるっていってよこすっけ。いまはインターネットであっちからでも仕事できるものね。あれもなんかやってるんでしょう。あんたは仕事は順調なの? 名刺はないの?
会えてよかったわ。これでみんなに会えた。あんたが最後。心配なのはあんたのお父さんと妹ね。どうしておなじきょうだいで違っちゃうんでしょうねえ。もっとよくなれたはずだけど。
また来なさいよといいながら個室の入口のところまで見送ってよこした。そこまでは自分で捕まって歩いてきた。握手をしてわかれた。ぼくのほうこそ会えてよかった。