この五年くらいはノートを作るのに Workflowy (https://workflowy.com/) を使っていた。

すべての機能を使いこなせているとはおもえないなりに、気軽に作ったノートをあとからシェイプアップしてブログに載せる、というだけのプロセスをうまくまかなってくれた。シンプルに使えるということがいちばん好きなところだったとおもう。

使いはじめたころに比べて付随的な機能がどんどん追加されたけれども、ほとんど使いかたをおぼえることもなかった。興味をもっていないのだ。軽くノートをとって、しばらくしたら忘れていくだけのこと。能率化することはほとんどどうでもよくて、短期記憶をプロセスするためのスペースとしてだけ使っていた。

ノートをとるだけの単純なはたらきをさまたげる機会が増えるにつれて心が離れたとおもう。あたらしいノートがなぜか表示されないとか、移動したはずのノートが元の場所に張り付いてとれなくなるとか。機能を足すことにあくせくしてダメになっていくパターンをなぞっているようにみえる。おもえば Evernote はそうやってダメになったなと悲しく思い出させる時間だった。

たとえば五年前の、いまよりも貧しいバージョンの Workflowy を $300 で買わせてもらえるならぼくはよろこんでそうするのに、現実は利益を再投資してはじめより悪くしている。ありきたりな話ではあるけれど、こちらに選択肢がないからどうしようもない。

みんなが Notion (https://www.notion.com/) はすばらしいといっていたときに、ぼくはあのもっさりした振る舞いが好きになれなかった。たぶん Notion は Evernote とおなじようにある役目を終えたら退場するだろう。その代わり Workflowy は「悪いほうがいい」の法則にしたがって長生きするだろう、という気がしたものだった。答え合わせは、どちらもだめになっただけのようにみえる。

アプリケーションを開けばかならずひとつは張り付いたまま動かせない悪性腫瘍みたいなノートがちらつくのに耐えられなくなって、もう起動する機会も激減してしまった。まだ利用期間は残っているけれど、メンバーシップの自動更新をとめて、支払い済みの残りの期間はフェードアウトするにまかせようとおもう。

既製のサービスに自分のやりかたをあわせるアプローチでいると、サービスがめまぐるしく変わるのについていくための余分な仕事が増えるというのはたしかなことだとおもう。ノートにあわせて頭を機能化するのを努力しても、ノートのほうがコロコロ変わるのを追いかけていては、かならず後手にまわることになる。

学生のときにたくさんとったはずのノートは書いたそばから散逸してしまった。デジタルノートであれば永年保存されるからなにも失わずに済むはずだ、という見立ては誤りだったことがわかった。書くコストが下がったぶん、ますますとりとめがなくなったような気もする。頭をつかわなくなったともいえる。頭はつかっていたいものだ。

ツェッテルカステンというノート管理の手法があることをさいきん知った。それが Obsidian (https://obsidian.md/) というまた別のデジタルノートの運用指南としてあたえられる機会があるのをみた。しかしもともとは手書きのメモをカードにして整えるやりかたで、コンピューターを前提にしないコンセプトであるのをおぼえた。

いまやぼくはデジタルファーストであることよりも、手書きに戻っていくほうに関心が向いている。ソフトウェアはたよりなく、たよりない道具をつかえばこちらの頭もたよりなくなる。