日曜日の午後にNHKホールのコンサートにいく。シーズン最後の月、最後のA公演で、一年の定期会員権もこれでおしまい。おつかれさまでした。
この日はロシアからウラディーミル・フェドセーエフさん92歳を招く計画になっていたのが、御大の体調の都合につき来日は流れて、次回公演のためにスペインから招聘がなされていたフアンホ・メナさんが代打にたった。59歳、それで名指揮者から巨匠に踏み出すということのよう。
プログラムはこう。リムスキー=コルサコフの歌劇「五月の夜」序曲、ラフマニノフはパガニーニの主題による狂詩曲、休憩をはさんでチャイコフスキーの交響曲第6番。チャイコフスキーがよかった。そのほかは、予習不足ですこしもったいなくしてしまった。
渋谷までバイクでいった。代々木公園までするすると進んだあと、いきなり巨大な渋滞があらわれた。反対側の車線が通行止めになっていた。プライドパレードのおおきいおまつりをやっているのだ。原宿から代々木八幡にいきたい車はみんな、代々木体育館のわきの細い道に転送されて、完全に交通が麻痺してしまっていた。
バイクを停めてホールにはいろうとして、公園の入口のところにバウンサーが立って通行止めにしているのにはばまれた。リストバンドをしていれば回廊を歩けるが、そうでなければ露店の背後を縫って通らないといけない。結果、露店の裏に通行人が殺到して一歩も動けないひどいありさまだった。
たのしい気分で大通りを歩くことが社会のためにむずかしくさせられているひとがそれで晴れやかな時間を過ごせるなら、ぼくひとりがすこし惨めな気持ちにさせられるのはどうでもいいことだ。とはいえ、印をもっているかどうかをみてぞんざいに選別して隔離するのは、あちらとこちらの違いを際立たせてくっきりと境界をひく、それが社会を息苦しくしているやりかたを無自覚に反復してしまっているようにみえて、不器用と目に映すことしかできなかった。
虹色の旗を降って平和にデモ行進をしているおおきな集団を行きと帰りに公園の外でみかけた。高くかかげられた標識には、プライドを守ることばよりも出資元のグローバル企業の社名がおおきく目立つように印刷されていた。どうせ渋滞で足止めされているからのんびりながめてみれば、あかるい笑顔で手を振って行進しているひとらはみんなおそろいの格好をしておられる。清潔な白シャツの胸のところにおそろいの企業名を掲げて、単数形的な集団があるく。
グローバル企業の社員さんたちが、会社の指示で週末のアクティビティに参加させられているのに違いない。そう邪推せずにいられなかった。短髪、髭なし、中肉中背で、肉体的にきわめて満足した男性たち。そういう集団が虹色の装飾を振りまわして行進することは社会のなんかしらの変化には違いないけれど、あちらとこちらのあいだにあるとされた境界は薄まったというよりも、なにか他のものにこっそり置き換えられたようにみえた。
もちろん、これはかけがえない祝祭の日のこと。手続きを踏んでパレードに参加するのは掛け値なしの善行にちがいない。限りある資源をバイクのために燃やして空気を汚すような衰退行為には比べるまでもなく、それがどれだけすばらしい意味のあることかはくれぐれも見過ごさないよう。いろんな集団がいろんな目的で行進している、そのうちひとつかふたつをみて短絡しないよう。硬派の主張がなければ行進してはならないわけではないし、会社に命令されてする行進だってサボらず実行するのはたいへんなことでしょう。
ぼくにはあれはできないかもと消極的におもってしまうのは、それ自体が自分自身へのわるい偏見、自分の首にかけて息を苦しくする真綿。不満足の根源はきっとこちらの心根にこそあって、貧しくよどんだ精神が豊かで単純な世界を見る目を濁らせていることにハッとさせられる。