スティーブン・キングの『イット』を読んだ。このまえに大長編『ザ・スタンド』をいっきに読み切ったあと、まだ続きが読みたくて仕方がない気持ちが残って、この勢いでなら長編をもうひとつ読めようと図書館から借り出した。文庫版なら全四巻あるのが、分厚いハードカバーなら上下巻にまとまってあって、返却期限に間に合うように一気に読むやりかたで読んだ。
弱い人間が超常的な悪を克服するはなし。原作は八十年代の出版で、舞台はその時代のメイン州の架空の地方都市にある。デリーとその街はいう。27年か28年ごとにおそろしい暴力が街を席巻してはなにもなかったかのように消えていく、その強大な死をもたらす力のことは親たちも祖父母たちもみてきたはずなのに、それが不運ではなくて悪の仕業であることには気づいていない。しかしこの七人の子どもたちは悪に肉体があることをとらえて、いちどそれを打ち破った。子どもたちは大人になって、ふたたびその悪を打ち破らなければならない。
なんの期待もまだ持たないで読み始めるときに、謎の兆候をちりばめながらおそろしい事件のただなかに子どもたちと読者をいちどに巻き込んで、もう引き返すことのできない感覚を作り出す。途中で読むのを止めさせない、最後まで読むことをうながして書くやりかたこそベストセラー作家の面目躍如だ。とはいえ、そのやりかたでグイグイ上巻を読ませたあと、下巻はほとんどがウィニングランとか消化試合の様相だった。
おどろくべき深みに達するというよりは、浅瀬で水浴びをする読書をした。悪いことではない。おおきい本をとおして読むのはむずかしいことで、疲れ切っているときには浅瀬にあそぶことが一大事とさえなる。浅瀬をものたりないとおもうのは、もうすこし深いところにもぐっていけるよとはげまされる心地のこと。それは悪いことではない。
ふたつの時間を行き来しながら進行しているようにみえて、終盤に向かうにつれて実はひとつの線が単調に伸びているだけにみえるところをひとつもの足りなく読んだ。ふたつの時間をずらすことによる逸脱がほとんどないとき、ふたつの時間が用意されていることは厚みをつくるよりもむしろ予定調和の印象を強めた。
絶対的な悪があることについて譲歩しないところが好ましかった。悪にも悪の事情があることを絶対に思い出させないつくりになっている。先史時代のジャングルに隕石が落ちてくるビジョンを使って、悪が地球をおとずれたことのメタファーにしている、その景色が目のなかに鮮烈に焼きついた。そのビジョンが断片としてだけ示されて、とくに結末に還元されないところも好ましかった。
何年か前に映画化されて盛り上がったおぼえがあった。その映画はまだみていないけれど、致命的なピエロのイメージは広告に植え付けられて頭のどこかにねばっていた。ピエロのイメージは冒頭に提示されて何度か反復するけれども、やがてより抽象的な暴力のイメージがピエロの姿を置き換えていくところは、たぶん映画よりもいいポイントのひとつになる。
映画スクリーンにピエロが悪としてあらわれれば、バットマンとジョーカーが作りあげた先行イメージの引力を脱出するのは簡単なことではなさそう。小説では冒頭にピエロのイメージがあらわれるが、それは狼男とか巨大怪鳥とか蜘蛛女などに並んで、子どもの頭のなかにある恐怖の象徴のひとつとしてだけあらわれて、抽象的な悪は目でみることができず、目でみることのできる恐怖は潜在意識の暗闇に住むイメージを借りてだけあらわれる様子であるのがよかった。