金曜日の夜にサントリーホールでN響の定期演奏会をきく。
いい時間を過ごしたとおもった。ひさしぶりによく音楽が聴こえた。外からくるものに耳がひらいて気持ちよく刺激をたのしむ感覚があった。
指揮はフアンホ・メナさんで、この前の日曜日に続いてあらわれて、しかしこんどは自分のプログラムを率いた。プログラムは前半にイベールの「フルート協奏曲」で、後半にブルックナーの交響曲第6番。
まずフルートの超絶技巧がたたみかける協奏曲。横笛ひとつがオーケストラに張り合ってぐいぐいリードするのにひとつも不自然のない力強さがあって、奇想にみちた和音のあいまを縫って感傷にかたむかないモダンな旋律が駆け抜けた。そういうイメージだった。ラッパみたいに分厚く遠くまで鳴る音がフルートから飛び出してくるのにたまげた。ソリストはカール・ハインツ・シュッツさん。いつもはウィーン・フィルで首席奏者の仕事をしているようで、当代随一の演奏家の技はこうだと知った。アンコールもあって、イベールの無伴奏フルート曲をきかせた。
休憩のあとのブルックナーの第六番は、わけのわからない、しかし異常な強さの説得力でせまった。いちじるしい抽象度の音楽は、メロディが耳をよろこばせるというよりも音圧が繰り返し押し寄せて空気砲みたいにガツンガツンと頭に響いてパンチドランクにさせるような演奏だった。ひとつのアイデアを発達させないことにこだわって、微小な着想にあくまでとどまる執着、執着、執着をこれでもかとみせるのが異質だった。始原の崇美。交響曲という語りのフォーマットにまったくちがう角度から光をあてた作曲家の仕事に聴こえた。
どこからでもあたらしくはじまって、どこででも終わることができた。直線がいっぽん通っていることはない。ひとつの円が別の円をよびさまして、しかもふたつの円はまじわっていない。そしてハッと発散して残響がふうっと消えていくのをきくと、形のないおおきな力が空気にみちていることがこのうえなく自明な事実のようにせまってくる。すぐれて物質主義にかたむいた音楽が、物質主義によって存在の神秘に急接近する逆説が感動的にきこえた。指揮者に雄大な確信があってそれをみちびいたようにみえたことが、このひとの名指揮者から巨匠にふみこんでいるところをみせて説得力があった。
梅雨のさなかにしてこの日は降らずに、バイクを溜池山王まで走らせた。いつもの駐輪場に停めて帰るとき、出口のゲートが壊れて開きっぱなしになっているけど料金は払ってから帰るようにと紙にボールペンの手書き文字をテープで貼った警告がみえた。お金をはらおうにも精算機の調子も狂っていて、駐車券をまったく受け付けてくれないから支払いもできない。ややこしさに参ってしまって、もう払わずに帰ってしまおうとしたとたん、その心を読んだみたいに自動音声がわめきだした。こうして機械化とは躁の全面化のことをいうのだ。低めのギアで環七をかっ飛ばして、ガソリンを入れて帰った。