「わがまま」をいうことの心理的なハードルをおもいきりさげて「わがまま」をうながす。本が「わがまま」といって指すのは社会運動のこと。
ふたつの独特なひねりがやさしい文体の主張を強くささえている。ひとつには社会運動のことを思いきって「わがまま」と言い換えること。もうひとつは、その「わがまま」こそ社会を前進させるものと意味づけること。そうして、あなたが「わがまま」をいわないことは美徳ではないんですよと痛いところを突いて、ぼくたちがどこかから仕入れて自明のものに育ててしまっていた「わがままは悪」という偏見を気持ちよくひっくり返してくれている。
ひとはもっと「わがまま」でもいいし、かえってそうしないと後手にまわるばかり。その「わがまま」がいえなくなってしまう従順さの罠を指さして、そこから逃れましょうと教える、野生のサバイバルガイドのような本。
富永先生は社会運動の専門家であるけれど、やすむ間もないほどデモに参加しまくり、舌鋒鋭く権力を批判することに一筋のためらいも見せない、など硬派で「わがまま」な活動家ではないことを自認されている。そのため、目上に立つ先生が説法がくだされるというよりも、ためらう弱さを共有するひとが勇気をだしてリードしようとはかってくれているという感覚がある。こちらも勇気をもとうという前向きな気分にさせられる。
先生ご自身がどこか「わがまま」になりきれない自分をみつめて、そうはいってももっと「わがまま」になったほうがいろんなことがうまくいきそうだよね、という感慨があるご様子。かんたんなことばで「わがまま」の効用を確認しあうことで、みんなでいっしょに「わがまま」になってみましょう。そうすればもっと世の中よくなるはずなので、とすこし消極的にせよサステナブルなやりかたでアクションをうながす。
「わがまま」ということばから毒を取りだして、かえって自分を治すための薬につかえるように調合しなおしてよこす。我慢が積もって心の調子をわるくしたとき「わがまま」の処方箋を自分のために取り出して癒やすことができそう。
社会運動をおこす、身を投じる、といえばいかにもおおごとにみえてしまう。それにくらべて「わがまま」をいってみることは簡単そうにみえて、そうはいってもやっぱりむずかしい。みんながいまよりも「わがまま」をいいあえばおのずと議論はうまれて社会はよくなるべし、という確信にもとづいて、その「わがまま」をなかなかいえない口をすべらすために油をさそうとしてくれる本。