N響の今シーズン最後の定期演奏会をききにNHKホールにいく。
こんどの指揮者はタルモ・ペルトコスキさんで、お生まれになったのが00年とのこと。若いのにこんなにポストを持っていてすごい、というのがプログラムに書いてあって、まあそんなものかと単に教わるくらいの気分で出かけた。
まあすさまじく気合のはいったマーラーだった。演目は交響曲第1番です。これはティーンのときにたまたまCDを持っていて、それしかないから延々と聞いていた思い入れのある曲にして、演奏会できくのははじめてだった。
たのしみに出かけていって、小澤征爾にもクラウディオ・アバドにも負けない硬派なマーラーだったっとおもう。高い期待をひょいと越えて、おそろしく感銘を受けずにはいられなかった。
指揮台にのぼってじっと待つペルトコスキはピクリとも動かず、集中力を内面に高めている様子。いつになれば腕をもちあげるだろうとおもってじっとみつめると、合図よりさきに第1楽章のドローン音が聞こえはじめる。かなりスローにひきずるようなテンポで、空気がたちまち緊張ではりつめるのがわかる。
譜面台をおかずにのぞむ指揮者は、おおきくない肩に背負った正装が頼りなさげにみえたのが嘘だったみたいにやがていきいきと躍動しはじめる。はりつめた最弱音がみずから発達して巨大な音の壁になって押し寄せた。第1楽章のなかに何度もクライマックスが聞こえた。天井を吹き飛ばすような音圧がオーケストラから飛び出した。こんなこと、いままであったかしら?
第1楽章のなかばにして、これはたいした名演になるに違いないという期待があったし、それがたわまないままひとつの楽章がおわった。拍手に値する楽章だったとおもうし、みんなここで拍手したい! とおもったに違いない。ただ、出る杭を打つ文化を内面化した聴衆は、例外的な達成に拍手を送ることをためらった。
楽章の冒険はきりりと醒めたまま進む。最終楽章で第1楽章が回帰して、金管が噴き上がるところ、ふたたびオーケストラが大爆発して、聞いたことのない圧力で音の壁がせまってきた。勝利の雄叫びそのものだった。あまりにもすごすぎて笑いと涙がいっしょにやってきて止まらなくなった。
なんという演奏だったんだろう。とにかくすごかった。なにがすごかったのかはよくわからない。マーラーはすごいし、N響はすごいし、ペルトコスキはすごい。三位一体になって、ツボにはまったみたいに強力な説得力がホールの内側に向かって爆発していた。
プログラムの前半はコルンゴルトの「ヴァイオリン協奏曲」で、ソリストはダニエル・ロザコヴィッチさん。スウェーデンの若い演奏家で、フィンランドのペルトコスキさんとは一歳違いのよう。仲睦まじそうにしているところを観衆に印象付けたけれども、それは微笑ましいというより、白人男性と若さをかけ合わせたときにたまにみえることのあるよくないノリを無意識に表現してしまっているようにみえたものだった。
若い彼らが無自覚だというよりも、若いことを売りにして才能を押し出したい業界の戦略がかいまみえて、どことなく居心地が悪かったのだとおもう。若さはそれを強調すればするほど、若さのための不完全さを免罪する予防線のようにみえる。それは指揮者にとっても聴衆にとっても、望ましいプロモーションではないはず。しかし無邪気に若いわねえと煽る無責任さは好ましくおもわれなかった。
コルンゴルトのきらびやかな協奏曲は、繊細なバイオリンソロを中心に据えて繊細に響いた。もっとド派手に仕掛けることもできそうなところ、予習に聴いた録音よりもテンポは遅く設定されていて、はかない美しさをハイライトしたふうに聞こえた。
そういう期待値で後半のマーラーにのぞんで、積極的にそれを裏切る熱血ぶりだった。おもうに、コルンゴルトのめずらしいプログラムに実験的にとりくむことと引き換えに、すでにレパートリーとして血肉化した様子のマーラーでおおいに爪痕を残すことをはじめから狙っていたのかも。そしてそれにまんまと誘い込まれて、まんまと夢中にさせられたのかも。
若くして実績のある指揮者がいまどのように分布しているのかはよく知らない。しかしこれからどんどんあらわれてくるにちがいない若いグループのうち、ペルトコスキはその世代の筆頭としてこれからも何度も名前を聴いたり録音を聴いたりするんだろうとおもう。もしかして若いときの小澤征爾さんもこうして、ぼくのように先入観をもった聴衆にはじめはあやしげなまなざしを向けられながら、実力で黙らせてキャリアをかけあがったのかもと想像した。