現代美術の展示を二条城のなかでやっているという話を知った。知ったのはもうすこし前だったのを、会期末の週末におもいきって京都へ飛び出していった。

このまえ母とサッカーをみにいったときに、あんた京都とかいかないの、とたずねられて、そういえばこの特別展は気になっていたんだった、とおもいだした。で、次の週末には終わるというのを見つけて押し出されるようにして向かったという段取り。

二条城にはいるのに入場券をひとつ、それから展覧会のために入場券をもうひとつ、というぐあいに二重の支払いゲートを越えたところに、会場がぎらぎらせずに待っていて、靴をぬいではいります。

深いかまちをのぼって正面におおきなキャンバス。金色の空がくずれて青銅色に濁りだしている。岩さえうずまかせる危険な風が吹くなかを、叫び声をあげながら真っ逆さまに落ちていく首。これが芸術家の最新作にしてこの展覧会の目玉のよう。

金色と青銅色をブレンドして黙示録的な世界をそこにあらわすことが展覧会のテーマになっていたようす。漆喰の壁に調和するとは信じがたいイメージがどこか調和してみえるのは、二条城がかつて誇示した権勢がいまではおおむね型なしになっていることと関係があるかしら。もう滅んでしまった世界のなかに立って、これから滅ぶ世界の先をみる。

物質が観念に先行する、という命題。これが芸術家のコンセプトということのようす。太陽があること、太陽は人間がいなくてもそこにある、ということ。人間がいない世界で、砂まみれの電球が砕けずに転がりつづけていること。ハンマーが、蹄鉄が、あらゆるジャンクが。オフィーリアがいなくても泉はある。

こちらはといえば、人間がいなければ世界はない、とあからさまに観念を先行させる主義に染まっている。それがカントにどう由来しているかは知らないで。人間がいなければ世界はない、というか、言語がなければ世界を認識できない、というのをどこかでおぼえて、たしかにそれはそうだとすっと腑に落ちたのを後生だいじにしているようでもある。

キーファーがこれはもの、ものそのもの、ともし言ったとして、その物質そのものがどうやって観念の引力を脱出して人間から自由になるのか、が興味深いとおもった。とはいえ、人間が列をなして作品にむらがっていることそのものが、人間の観念のおぞましいおおきさを逆照射していて、そのとき物質そのものということをどうして言い切ることができるのかはあいまいだった。

薄暗い城にお日さまの光がほのかに照らして、暗い作品がぼうっと浮かび上がっても細部までビビッドに光るわけではない塩梅はすごく感じがよかった。人工であることから離れられないのを出発点にして、人間のなかに自然を住まわせるのではなくて、汚れた光と風が世界を覆っていることを伝えるのは真摯だとおもった。

古い会場には冷房はもちろんない。腰掛けて休める場所もない。しかたなしに松の陰にヤンキー座りして脚をやすめた。葉のすきまから青白い空がみえた。