日曜日の夕方に六本木のシアターEXでスティーブ・ハケットの生演奏をみた。

スティーブ・ハケットはロック・ギタリストのおじいさんで、ピーター・ガブリエルといっしょに「ジェネシス」というバンドをやっていた。イングランドのバンドとしてもともとそれなりに成功したバンドだったのをピーターは辞めて、ソロで世界的なパフォーマーになった。スティーブもピーターに続いてバンドを辞めて、彼が辞めたあとの「ジェネシス」はポップスに転向してやはり国際的に大成功したバンドに成長した。ピーター・ガブリエルのステージは二年前にロサンゼルスでみた。

スティーブ・ハケットというひとは元同僚の商業的な大成功には幸か不幸かかかわらずに、おじいさんになっても世界をツアーして演奏旅行を続けているという立場のひと、ということになりそう。この日の演奏会も、いまではもう半世紀前に書かれたバンドのレパートリーをたずさえて古いファン向けに営業にきた公演という面もみえる。ロックミュージック一筋で人生を支え続けることができている時点でとんでもない成功者に違いないのだけれど、仕事として音楽を続けることのリアリティが切実にうかがえることもたしかであるようだ。

高校生のときに仙台のタワーレコードで、そのときのぼくには名前も聴いたことのないバンドの知らないアルバムを母が「おい!これはいいぞ」といって買ってきて、秋田に帰る車で聴いた。それが「フォックストロット」という水色のジャケットのアルバムで、ぼくにとってははじめて聴くジェネシスの作品だった。どうやらこれは通好みのバンドらしいとあとから知って、英語の勉強をしながらコツコツ歌詞を読んでおぼえた。というわけで母子で細々とふたりのファンであったところ、こんどの演奏会の予定を母が聴きつけて、いきたいから付き合ってほしいというのにこちらも乗り気で相伴したという格好の参加です。

誘ってもらったお礼といって、ツアーシャツを買ってあげて、その場で頭からかぶって席につきます。アリーナ席も椅子つきの公演で、みんな座って待っています。客層は、もうとっくに退職して昔の趣味に気ままにすごしているような世代のおじさんたちだらけで、ひとりで来ているひとも仲間と来ているひともみんなたのしそう。前回の来日公演のシャツを着ているひともいるし、三十年前のツアーシャツを着ているひともいる。その古さはもはや古着屋で見かけても見逃しかねないレベルの骨董品だなとおもいつつ、熱心さに感心しきりです。

インターミッションがある公演である旨のアナウンスがあって、前半のセットは最新曲とバンドを辞めたあとのソロキャリアのハイライトのセットです。知っている曲はひとつもなかったけど、フュージョン風のアドリブを長い尺でまわしたり、エレキベースのソロをしっぽり聞かせたりするコーナーがあって、技術をみせつけることにこだわって音楽をやりたい心意気がみえるのがよかった。いくらかの熱心なファンはソロ曲のレパートリーもちゃんとわかって歓声をあげていてたのしそうにしていた。知らなかったけど聴き応えのある曲で収穫になったのは “The Devil’s Cathedral” と “Every Day” のふたつでした。

三十分の休憩のあとの後半はジェネシスのレパートリーで、原作のアルバムの曲順を追いながらハイライトで聴かせる趣向のプログラム。こっちのほうを目当てに来ていたファンがぼくたち母子をふくめて過半数だったとおもうけれども、演奏がはじまったら妙な手拍子なんかはしないでみんな黙って聴いているのがアイドルのコンサートではなくて演奏会という雰囲気でとても居心地がよかった。

いっぽうで、これらの作品はジェネシスの作品であるという以上に、若いソングライターとしてのピーター・ガブリエルのリリシズムが強力に刻印されているから、素晴らしいレパートリーを素晴らしい演奏で聴くほどに、ここにいないピーターの不在感がぽっかりとステージに穴をあけているようにもみえた。こんなことをいって失礼にほかならないのだけれど。

イングランドで(当時の)当世風のロックミュージックをやろうとしたときに、島国の牧歌や諧謔を根拠にするばかりではいくら知的によそおっても行き詰まりにしか至らなかったということが切実にみえるような気がした。ローカルなサウンドはどれだけ粋にみせようとも民謡の延長にしかならない。ビートの強調はアメリカからきたもの、さらにはアフリカからきたもの、と見立てたときに、イングランドの気質があまりに古く狭くみえることがあってもおかしくない。

そうしてピーター・ガブリエルはバンドを辞めてアメリカのリズムを勉強し直した。ジェネシスもソウルのリズムを取り込んでダンス・ポップ・バンドに転向した。スティーブ・ハケットはそれをしないで、イングランドの土着音楽に拘泥した。

イングランドのロックミュージックなんかは、たとえば日本のアニメ音楽なんかとおなじくらいニッチで形式的な媒体で、表面的な派手さとは関係なく本質は民俗学のほうに傾いてある。現代的、都会的で洗練されているというのではなくて、田舎臭いがダサカッコイイというところ。白人のロックミュージックは斜陽だとおもうし、これからもそのままでいいとおもうけれど、民俗芸能としてしぶとく継続してほしいところ、などとかんがえた。

いちどメインのプログラムが終わったあと、アンコールでは技巧的な曲をいくつかみせて、わかりやすい大団円になった。みんな立ち上がっての拍手で、ブラボーという声も乱れ飛んでいた。母も「すごいねえ、格好いいなあ!」と満足したようだった。四十年越しにはじめて生演奏を聴けたとうれしそうに話しているのを聴いて、そうかこのひともぼくよりずっと古いファンで、感激もひとしおでしょうとおもった。

休憩時間を含めて五時から八時まで三時間の公演だった。会場をでたらいかにもスコールが来そうな雰囲気で、六本木ヒルズのレストラン街に隠れた。和食のセットで銀ひらすの西京焼きをたべた。