燐光群の舞台を下北沢でみた。会場はザ・スズナリ。
題材は京都議定書の採択をめぐる政治的駆け引きで、もう三十年も昔の京都議定書がどうして気候変動にとって画期的だったかという話。
主人公と副主人公がいると見立てるとき、主人公はドン・パールマン(円城寺あや)、アメリカのリトアニア系ユダヤ人だ。レーガン政権下のワシントン、エネルギー省の中枢ではたらいたあと、グローバル石油企業のロビイストとして暗躍、京都議定書を阻止しようとする。副主人公はラウル・エストラーダ(猪熊恒和)、アルゼンチンの外交官で、議長として京都議定書を合意させようとする。
石油ロビイストの影響力はあまりにも強力だから、京都議定書はほとんど最初から死に体だ。現在利益を手放したくない先進国の思惑、ソフトな植民地主義を再現させたくない発展途上国の思惑、石油輸出国としての優越をみすみす手放したくない産油国の思惑、世界経済発展のための犠牲羊にされる筋合いなどない小島嶼国の思惑に、ひとつにまとまる気配なんてない。ただでさえはかない希望の炎だというのに、ドン・パールマンのしたたかな攻撃はそれをなんども踏み潰してやめない。
まだここにいない子どもたちのための、未来のための環境保護は、結局のところまぼろしの理想主義に過ぎないか? どこにも勝ち筋が見えなかった議定書は、しかし奇跡的な大逆転で採択される。賛成過半数の採択でない、世界の全参加主体の満場一致での採択! 世界のすべて、すべての世界が未来の子どもたちのために協力しあうことができること、これが劇の感動的なメッセージのようだった。
そうして世界がひとつにまとまることがかつてなくむずかしいとおもわれるのが現代だとして、三十年前の世界がもっと牧歌的で宥和的だったというと、そういうわけでもなさそう。昔も世界はばらばらだった。昔のほうがいい世界だったというのは時代錯誤だが、昔のひとは死ぬほどがんばって条約を作った、そして守らせようとした、それは本当のことにみえる。ぼくたちがあきれたりあきらめたりするのに慣れそうになってしまっているとき、理想のために死ぬほどがんばる勇気をくじかせることこそ悪玉の思惑通りかと目からウロコを落とす。
オリジナルはロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの制作で、こんかいみたのは燐光群による翻訳の上演。イギリスものの演劇? とおもってみにいって、軸にあるのはアメリカの暗いエゴが世界を悪く覆ってしまいそうになった事件の演劇的描写だった。主人公は、理想に燃える正義のエストラーダではない。
グローバル石油企業の雇ったロビイスト弁護士、レーガン政権で訓練されたアメリカ的有能のシンボル、パールマンこそアンチヒーローの主人公だ。そしてこのアメリカ的有能の暗いエゴが暗躍してあわや世界を転ばせようとしたとき、なかなかまとまらなかったはずの人間の会議はなぜか一致団結することができて、パールマンは打ち砕かれた。
そういう筋書きがアメリカの自己批判としてではなく、イギリスの劇団の手によって書かれ上演されたことにアメリカのひとたちは落胆しているかも。でも、世界がアメリカを真剣にみていることがやっぱりたしかでもあるようだ。落胆の眼差しは、期待の眼差し。そして暗雲たちこめる政治のテーブルから理想主義がいまにも追い出されそうになっているとき、なにが転機になって希望の炎がもういちど光るかといえば、それは陰ながらはたらく勤勉で高潔なひとびとの耐える力であるようだ。そのことを劇の文句はこういっていた、とにかく話し続けること、いつまでも話すのを止めないこと。