おばあちゃんの火葬にたちあった。
金曜日にお亡くなりになられた。週末と週明けはもともと予定にあった引越しの仕事でたいへんな忙しさがあった。新居の道具をそろえる買い物といっしょに、イオンモールで喪服を買った。
木曜日の朝、参列者は西国立の火葬場にあつまった。父母と叔父叔母が勢揃いした。八人いる兄弟といとこのうち四人までがやってきた。段取りを伝えてくださる案内人のかたは、久石譲によく似てみえた。ロビーで汗をかわかして、おばあちゃんの棺がやってくるのを待った。
死化粧を厚く塗ってわかくなっておられた。やすらいだ顔をしておられた。花をたむけた。つめたい肌にふれた。苦しみを離れてどんな気持ちでいますか。どうぞ楽になさってください。これからは無言で伝えても聞いてくださいますね。黙って見送った。さらさらした水が鼻からでて口ひげが濡れたのを感じた。
父と叔父らが見送りをするのを、われらはガラス越しにだけ見せていただいた。待合室で一時間ばかり待った。ティッシュもハンカチも持たずにきてしまって、聖苑のトイレでおもいきり目鼻をぬぐった。
いちばん下のいとこは中学一年生にあがって、飛行機の追っかけと英語の勉強に熱心になっている様子だった。いけたら留学にいってみたいとも。おなじころのぼくはどれくらい能天気だったろうなとおもいだして、それよりもずっと成熟してたのもしくみえた。
叔母さんとは、旅行の好きなおばあちゃんはほんとうならもっと長生きするはずだったけれども、コロナ流行で出かけられないうちに足腰を弱らせて、それが元気をうばってしまったかしらと思い出ばなしをした。大阪万博のおみやげの、たこ焼き味のお菓子をたくさんもらって食べた。
拾骨は参列者がひとりひとつの仕事をして、残りを葬儀屋さんが間違いのないように壺にお納めになった。手際よく終わって、次の家族のお別れのために場をあけることになっていた。火葬場で解散した。骨壺は叔父さんがふるさとへとお持ちになった。
弟は午後からの仕事のためにタクシー降り場で消えて、父母とぼくとはルノワールで軽食をした。葬儀よりも別の剣呑な身内の話をいくつかきいた。思い煩いから自由になるのはむずかしく、みな狂気に半身を突っ込むようにしてお悩みになられている。
ぼくにしてもまた苦しんだり喜んだりいそがしくしているのを、おばあちゃんがみたら心配なさるかしら。会ったことのないおばあちゃんのおとうさんがたも、われらを心配なさっているかしら。もしそうだったら申し訳ないけれども、子どもたちはいつまでも未熟でいて助けなしには生きられなく、ご先祖はそれでもわれらのお味方として守ってくださっていると素朴な信仰がぼくのなかにあるのをおもった。