夢中になって読んだのは八月の頭のことだった。

読んだ本のいちいちを日記に書き留めようと心がけるわけではないのだけれど、あんまり忙しくて日記どころではなかったことは別にして、ほとんどめっぽうおもしろかったこの読書のことを書かずにおくのは人生の財産をすこし減らすだけになるのではとおもって、穴があいているのを埋め直すようにして思い出だけでも書き留めておこう。

巨匠の手になる重厚な古典という印象があって、タイトルはずっと知っていてもなかなか読む気にならずにいたのが、なんとなく本屋で手にとって冒頭をちらりと読んだだけで引き込まれずにはいられなくなる。

あらすじはこう。流刑地として開発されて、いまでは二世三世の世代をはぐくんでいる月世界のひとびとは、地球のための食料生産にはげんでいる。はげんではいるが、限られた資源を安く買い叩かれている。植民地にされているわけ。

主人公は計算機技術者で、月世界の中枢にあるひとつの計算機が、末端にいたるまでのあらゆる情報を記憶し続けた結果として、独特の個性とユーモアを宿していることを発見する。計算機が知性をもっているのだ。いたずら好きのこの計算機と偶然を味方につけて、月から地球への反政府活動に火がつき、風が吹くごとにおおきくなりはじめる…

大規模な入力を計算機にあたえると知性らしきものが生じるということ、これはいま世界をおおいつくしているハイプの予言そのものという感じがする。人工知能が使える道具を自律的に利用してあらゆる仕事をやりまくるというのも。そうやって、現代計算機の可能性と限界を半世紀前に予言しきっているようにみえることがこの小説の興奮のひとつ。

月世界の労働者たちは、みずからが流刑者の子孫、賤民であることを知っている。はじめから負け犬とおもって、ちいさい反抗心はあっても忍耐してしまう。それが、くだんの計算機の緻密なプロパガンダによって、代わりのきかない月の労働者としての自覚を徐々に手に入れて、地球の高慢な行政にノーという強さを得る。その描きかたにはプロレタリア芸術みたいなロマンティシズムがありながら、経済的利益をめぐる独立交渉の駆け引きと、譲歩を引き出すためのギリギリの武力行使というリアリズムも織り込んでいる。理想主義だけでない、具体的な説得力を書き込んでいることがもうひとつの魅力にもなっている。

文庫本の600ページのなかには、未来の計算機理論が述べられている。多夫多妻性家族の理論が説明されている。スパイと裏切りへの強い耐性をもった組織理論が述べられている。寡頭政と民主主義を妥協させる理論が述べられている。アメリカ独立戦争へのオマージュが述べられている。ソビエト革命へのオマージュが述べられている。

そしてあらゆる理屈づいたコンセプトの畳み掛けが、ページをめくるほどに理屈だけではなく情緒に訴えて興奮を増幅させる。これはすごい小説で、たしかに古典で、巨匠の仕事だった。