おなじ作家の『月は無慈悲な夜の女王』を夢中で読み終えたあと、仙台駅から東京行きの新幹線に乗り込む前に改札脇の書店でもうひとつの古典をみつけて読みはじめた。

宇宙戦争時代の人間の軍隊の話で、頼りない裕福な坊っちゃんが一人前の兵士になるべく訓練を受けて人格を作り変えられている様子を、その坊っちゃんの一人称で語る。新兵キャンプの訓練がはじめは悪意のしごきと受け止められていたのが、やがて連帯意識として主観のなかに肯定される。軍の閉鎖的な性質を批判的に描くようにもみえた筋書きは、最終的には自覚ある軍人の成長物語に上書きされて、軍隊を積極的に意味づける小説に変わっていく。

理想的な軍隊をここではつくろうとしているようで、歩兵部隊の構成員は階級を問わずに地上戦を戦うことになっている。五体満足でいておいて、制服に着替えて現場を離れることはありえないとされる。指揮系統は堅固で命令は絶対だが、みなが自発的にあふれる敬意を上官にもっているので、非人間的な支配にはみえないようになっている。

『月は無慈悲な夜の女王』で労働搾取からの独立という理想主義的主題を描いたのとおなじ手が、こちらではガチガチの軍人の世界を描いて、反動的にみえるというのはある。とはいえ、あちらでは革命を理想化したあとこちらでは軍隊を理想化しているというのに一貫性がないということはむずかしく、むしろどちらにあっても、主題は政治的であるよりも職業的であるようにみえる。

ひとつの職業に献身的に従事する人間には、独特なもののみかたが備わる。『月は無慈悲な夜の女王』では、計算機を相手に仕事をする専門家が世界をどのようにみているかが述べられた。『宇宙の戦士』では、パワースーツを身につけて敵の惑星に降下する歩兵たちが世界をどのようにみているかが述べられる。かれらの主観のなかに政治が介在する余地はすくなく、潜在的な政治家たちだけがそこに政治をみてとる。就職先に自衛隊を選んだひとがいっぽうにいて、もういっぽうにはその自衛隊に不健康なロマンティシズムを投影して我田引水するひとがいるように。

冒頭で、同級生の男ふたりと女ひとりが軍に志願して、ばらばらの配属になる場面を読んだとき、あれに似ているなとおもって脳裏をよぎりながら、特にひっかかりを持たせずに通り過ぎさせた映画のタイトルがあった。それはバーホーベンの『スターシップ・トゥルーパーズ』で、この小説こそ映画のまぎれもない原作であったことは、小説を読み終わってはじめて原題を調べたときに知った。まぬけなこと。

小説と映画とではユーモアの力点にかなり差をつけているのはあきらかだが、どちらにしても戦争をアイロニカルに描いたそのひとが全体主義者だとおおざっぱに弾劾されていると意識するとき、声のおおきな手合いが些事に政治を読み取る目はかなり粗いものだと思わざるをえない。現実の政治劇もおなじように粗いものではあるか。

ひとがエリートの顔して利口ぶっているのを貧しい思いでながめるとき、それが反エリート主義というよりも単にあきれたまなざしであるだけということはありえるとおもう。