音楽エッセイの単行本を読む。
私的な雰囲気に満ちている。ディアンジェロを知らないひとにディアンジェロを教える書きぶりではなくて、知っているひとは知っていることを、知っているひとが読んで確認するために書かれた体裁になっている。一見さんのための入門ではない。かといって、専門的に読ませるためのものでもない。音楽の描写は感覚的、ジャーナリズム的で、もっとも強く主張したい様子に見える前衛性は単に無意識の消費様式としてだけ説明される。ファンがファンのために書いてファンが読むという意味で、二次創作ということなのかも。
ジャーナリズムとしては、同時代のアフリカンアメリカンの女性がディアンジェロをどう消費したかを興味深く伝えている。ある開明な女性が、この音楽家をどう消費したかが生々しく書かれている。生々しく、というのは、ときにその消費が性的なありさまをのぞかせることを理論によって乗り越えられてはいなく、乗り越えられないことを認めてあきらめる様子さえあらわしているさまのこと。よく整理されているようで単なるゴシップのような話題がおおいのは欠点のようでもあるけれど、ところどころある意味で赤裸々な弁解のようになっているところに読みがいはあった。
取材対象に没入してしまっているところ、それは読みながら正直に引いてしまって距離を取りたくさせる要因になってしまっているとおもう。とりわけ「知的な」音楽家のサークルとしてディアンジェロたちのことを評価しようとして、メソッドマンとレッドマンの「品のない」ラップのことを遠ざける書きぶりは公正でなかった。
レトリックで「知性」による優劣を認める方向に導いてしまっているのは、欠点だとおもう。ぼくは「知性」のある音楽家はたしかに存在するといえるけれども「知性」のない音楽家を非存在にするのは賢明でないとおもう。というか、その「知性」を認定する者こそ非存在であるべしとおもう。それを素朴にやってしまっているのに「うわ」とおもってしまった。そのうえ「知性」のあると認めたものだけに弁明の機会をあたえて免罪してしまっているあたり、公正でないとおもう。
とはいえ、ひとつのディスクに対する非公式で私的なジャーナリズムは有益とおもう。そこに聞きどころを求めたことはなかった、と唸らされる視点はいくつもあった。とくに “Devil’s Pie” のリリカルな主題に成功の罠と没落の誘いを読み取るところは刺激的だった。ニルヴァーナの『イン・ユーテロ』が成功についてまわる憂鬱を連想させたり、ケンドリック・ラマーの『トゥ・ピンプ・ア・バタフライ』が成功の欺瞞と自己不信を連想させるのに、このディアンジェロの『ヴードゥー』も連なっているかと連想させた。そういう補助線をもってながめたことはぼくにはなかった。
ディアンジェロ《ヴードゥー》がかけたグルーヴの呪文/フェイス・A・ペニック|音楽|DU BOOKS|ディスクユニオンの出版部門