三連休のおしりの月曜日は敬老の日で、雨の降らない予報。おもいたって中尊寺をもうでる。
昧爽起床。付箋に「起きたら洗濯」と書いてゆうべスマホの画面に貼り付けておいた。そのとおりに布団から飛び出して洗濯機のスイッチをいれて、ストレッチをして朝ごはんを食べているあいだに出来あがった洗濯物を干しきって、とっととバイクにツーリングバッグをくくりつけて家をあとにする。曇っているし、風をあびると寒いくらいだ。秋のジャケットがちょうどいい。
曇っても黄金の田園風景のどまんなかの農道をわたる。前谷地、涌谷、登米、栗原、一関。県境の山道あたりで小雨があって、ヘルメットに水滴を見つけて嫌な予感がしたとおりに、だんだん水滴があつまって視界がずぶ濡れになった。霧のなかを横切ったみたいだった。手元にマウントしたスマホの画面はウインドシールドで守られてあった。一関市内の道路も濡れていたけれど、もう止んでいた。風が乾かすのにまかせて平泉へ。
中尊寺の参道ふもとの駐車場で、バイクはあっちに停めてから後払いで五十円もってきてくださいといわれたとおりに停めたら、まわりのバイクは練馬、品川、川崎、大阪と遠出組ばかりだった。なお、ぼくのナンバープレートもまだ練馬のまま。
参道をブーツでのぼる。弁慶堂で無念の表情の弁慶像をみる。本堂で歴史の概説の展示をみる。宝物殿で戦後の発掘調査で出土した無数の国宝をみる。
金色堂は想像したよりもちいさく遠目であるのにおどろいたあと、あらゆる細部までデザインされ尽くして隙がないのをみて二度おどろく。京文化の模倣にはあらず、京にさえみられないオルタナティブな意匠だという。それは藤原氏が独自の交易路から東南アジアの木材やら貝やら、京をバイパスして物資調達してかなえた。平安京が荒廃していたころ、奥州に仏国土をひらくといってこれをこさえたのは偉い、ただ偉い、とおもった。宮沢賢治の詩碑をみる。芭蕉の詩碑をみる。山口青邨の詩碑をみる。伊達政宗が豊臣秀次を招いて観劇したという能楽堂をみる。
金色堂の「創建当時の輝き」が大修理によって復元されたのは六十年代だというので、政宗も芭蕉も賢治も、朽ちた堂にだけ霊感を得ていた。復元しておがめるのはたしかにありがたいこと。ただ、その「創建当時の輝き」がなくとも残されたものを知るひとは知っていたときに、金ピカに魅せられて拝むわたしにあさましさがあるのを恥ずかしくもおもう。かえって、かつての黄金が朽ちたお堂をみてみたい。頭と腕のないギリシア彫刻にそれらを補うと不完全であるみたいに、輝く金色堂は不完全でないかしら、とか考えながらあるく。
じっくりお参りをして参道の適当なそばやにはいってブーツで足が痛いのを休ませる。祝日の正午のかき入れ時に、何千人が通る参道のすぐ脇にあって、客が誰もいないのに嫌な予感はあったけれど、まあまあはずれのそばを食べる。もったりした天ぷらは実家で山菜を揚げるのに失敗したときみたいになっていて、海老天は皿のうえではじめからもげていた。
帰りには来た道はもどらずに、栗駒山のほうに向かって「栗駒山麓ジオパーク」を見学した。栗原市の全域の地形、地質、災害の展示をみた。栗原は2008年の内陸地震でいちじるしい地すべりの被害を受けた。地震といえば2011年のもの、というのが無言の記憶のようになっているのにあらがうわけではないけれども、異なる傷と記憶がたしかにあるということを教わって慎ましくさせられた。山も沼も鉱山跡もこんどまたおとずれてみよう。ただ、きょうはもう帰る時間だ。洗濯物が取り込んでもらうのを待ってる。
金成のガソリンスタンドで給油。ほんとうのところ、まだ警告も出ていないし、家までもつんじゃねえかなとおもいながら満タン給油したら、やっぱりタンクには四リットルくらい残っていてまだまだ余裕だった。せっかくなら家の近所でちょうどよく満タンにしてフィニッシュするのが気持ちいい気はしたけど、田んぼの真んなかでガス欠におびえるよりはマシだったか。
往路でなんとなく気になった前谷地駅に寄ると、レトロな駅のふもとのパネルが地名の由来を語っていた。マエヤチ、アイヌ語からの借用で、静かな沼、という説が有力という。豊かなものだったんだろう。もちろん、いまある田園風景だって豊かなもので、閑散とした駅前にみえてもひとはそこここにおられる。金色堂みたいに再建されなくても、なにもなかったことにはなるまい。なあんて。
グーグルマップにまだ知らなかった近道をおしえてもらいながら、四時ちょっと前に帰着する。往復高速道路は使わずにだいたい180キロをトコトコ走った。洗濯物も暗く湿っぽくなるまえに取り込めた。これが今年の敬老の日だった。