秋晴れにめぐまれた週末、日曜日は朝からバイクに遠くに連れていってもらう。
行き先はまず柴田町の船岡城址、そこでは五十万本の彼岸花がいっせいにみごろを迎えているという。それから亘理町の荒浜、母方のおばあちゃんがそこで生まれ育った場所だ。ぼくはまだおとずれたことがないのだ。
あわてて早起きはせず、ゆっくりと起きて九時前におろおろと出かける。すこしつかれている感じもあって、サボって出かけないことにしてしまおうかともおもったけれども、わずかな秋の気持ちのいい風を逃せば後悔するぞと言い聞かせて自分の背中を押して出かける。
松島、利府、塩釜と晴れた海辺を走っていくと、午前中の空気はまだ冷たくて風が寒く感じさせる。多賀城から仙台港にはいって、仙台の中心を迂回して南にいく。
東部復興道路と名前のついたバイパスを走るころには、おひさまがさんさんとさして身体をあたたかくして、ひとつのあくびが家に置いてきたはずの眠気を呼びだしてしまうことになる。はじめての休憩にセブンイレブンにはいってホットコーヒーを飲んでぼうっと立っていたら、知らず知らずそこは仙台空港にすぐ面していて、全日空のジャンボ機がふわっと目の前から飛び立っていくのがみえた。
岩沼で国道4号に合流すればそこから柴田町まではあっというまだ。ナビをみずとも「船岡城址公園」と目的地を案内する標識がつぎつぎあらわれるようになって、それをみながら進んでいって、すぐそばまで寄せる。ただ、いざお膝元についてみると「ここを曲がればお祭りをやっています」という看板と「工事中、関係車両以外出入り禁止」という看板が隣り合って主張しあっていて、しかもそこは未舗装の道が風に砂埃をあげているから、工事中なのはまちがいないがお祭りはまだみえないので、いちど消極的に通りすぎた。でもほかに入口はなくて、ぐるっとまわってから戻ってきて、看板が悪い、おれは悪くない、と念じながら未舗装路にはいっていったら、そのさきに視界いっぱいの彼岸花があった。
お祭りの名前は「しばた曼珠沙華まつり」といって、いかにもサンスクリット風のみやびな音と字をしているその曼珠沙華というのが彼岸花の典雅な別称であるのをぼくははじめておぼえた。船岡城址公園は、鎌倉から江戸初期までそこに城があった、いまはない、ということを自明のことのようにあつかってあまり説明をしないで、かえって伊達家にお家騒動があったというようなハイコンテクストなことだけをアンバランスな詳細さで語っていて、城の由縁はよくわからずじまいです。
山の中腹まではバイクで登れて、そこから先は駐車してあるいて登るようになっている。もともとあったケーブルカーは経年劣化のためあと二年かけて取り替え工事をするといって、みんな歩いて登らされるようになっている。それなりの急坂があるところをえっこらやっこらと登る路傍には彼岸花はおみえにならなくて、山頂の公園でようやく群生をみられた。
小鳥はすこしもいないようすで、代わりにセミとかマツムシがにぎやかに歌っていた。風にあたりながらみおろす近景には萩の月の工場がみえて、遠くには薄白く透明になりかけながらおおきな威容の蔵王連峰がずらりとみえた。白石川がながれるのがよくみえて、春にはそのほとりを千本桜が埋め尽くすんだという。それも壮観だろうなと心の目でながめる。
下山してお茶を飲んですこしやすんで、そろそろ出ようかなとおもったとき、駐輪場のあたりには大道芸人さんを囲んでひとだかりができている。そこからバイクを出すのにひとだかりをかきわけて装備を点検したりしたらいかにも水を差すだけだとおもって離れて待って、営業が終わったところでようやくバイクを出して、次の目的地に向かいはじめたのはちょうど正午のことだった。
国道4号をすこしもどって、阿武隈川を東にわたって、三十分ばかりで亘理町荒浜についた。ツーリングマップルでみた「海鮮大海」でお昼にしようとおもっておとずれたら、臨時休業となっていた。あまり心当たりもなくなんとなく海のほうに向かっていったら、のぼりが立って車をあつめている駐車場があった。そこにふらりとはいると、ちいさくてあたらしい商店街になっている。
季節のはらこ飯を食おうとおもったら、5つくらいあるどのお店でもそれを出している様子。どこにしようかとおもったときに、居酒屋さんがお昼にお弁当を営業している格好のお店で、女将さんが威勢よくはらこ飯とアラ汁の話をしているけど、みたところそんなにひとだかりはできていないところでごちそうになることにした。
目の前にいる女将さんが客寄せのあいまに世間話をしてくれた。石巻からきて31年になる。津波でやられたあと仮設に住んで、この商店街であたらしくしてからはちょうど10年。きのうの夜は花火大会やってて、二時まで居酒屋で飲ませたあと、きょうはすこし寝坊したけどまたごはん炊いて出してる。お米は高いし、鮭も高い。鮭は放流しても帰ってこなくなっちゃった、潮が変わっちゃったから。また捕れるまで北海道から仕入れて出してる。
鮭のはらこ飯は亘理が発祥なのは、女将さんだけでなくてぼくの母もいっていた。母ははらこ飯よりもほっき飯のほうが好きといっていた。でもほっき飯は冬まで待たないと出ない。
この女将さんのお店のこだわりは、あら汁でごはんを炊かないで、ふつうに炊いたごはんに色がつくまですこしずつあら汁を混ぜて染み込ませていくこと。まわりのお店では炊き込みごはんにしちゃっているけど、するとごはんがもちゃもちゃしちゃうし、冷めたら食べられたものじゃなくなる。うちは炊き込んでないから、冷めてもおいしい。でしょ? と女将さんはいって、たしかにごはんは冷めているけど、味は染み込んでいるしごはんはしっかり形をまもっていて、おいしい。鮭のあらのあら汁もあつあつでおいしい。
ファストフードの素早さで冷たいごはんを出されたとき、正直にいえば炊きたてのごはんじゃなくて出来あいを出されたとおもって、残念におもってしまってはいた。でも、冷たくても食べられるものをとそうこだわって出しているのを聞けば、それがいちばんいいものと信じて食べてしまうものだった。ものはいいようといえばそうだけど。
知恵と工夫があるのはありがたいこと。たぶん、なにを食べたというよりも、それを作ったひとと話しながら食事できたことのほうがうれしかったというのもあるのかも。
亘理町荒浜は、母方の祖母のルーツがあるところとぼくは母におそわった。祖母の存命中にはあまり詳しく尋ねたことはなかった。祖母が亡くなったあと、彼女がていねいにつくった古い秘密の写真のアルバムがあらわれて、そのなかにはぼくの知っているおばあちゃんとは別の、でもその目と笑顔のやさしさはおなじの、若いおばあちゃんの姿があった。望まない相手との結婚を強いられるまえの、小学生を熱心におしえる美しい先生のすがた。
おばあちゃんはKという家に生まれて、祖父の家に売られた。売られた、というのには長い因縁があって、厳しい表現はたぶん不正確ではない。
亘理にいたのは、ぼくのひいじいさんのK・ジンキチさん。ジンキチの母は、Yに嫁いでジンキチを産んだあと、男性アイドルのブロマイドを持っていたとかなんとか難癖をつけられて、傲慢な離縁を強いられたらしい。いたたまれずに、ジンキチを連れて隠れた。ジンキチはYではなくKのせがれとして成長した。やがて電電公社で立派に勤めあげた。すこしは社会でうまくやれたといっても、Yが母にかぶせた汚名は彼をながくなやませていた。
そのYの傲慢な血統がやがて祖父に流れこんだ。祖父方のひいばあさんはYの令嬢だった。祖父はお母さんっ子で、死ぬまで面倒をみた。ただ、それは美徳というよりもむしろ、甘えん坊の悪ガキによる悪徳の継承であったようだ。
ぼくのおばあちゃんがあらわれる前に、祖父は妻を得ていた。そして、自殺に追い込んでいた。この傲慢の継承者は、自殺したのはアレの勝手な問題だと言い放って、すこしも哀れむことをしなかった。悪がひとりの女性を自殺に追いこんだと語り継がれているのは、まっとうな評価だ。
まだはたらきざかりの祖父は後妻をもとめた。しかし嫁を自殺させた家の後妻に誰が娘をさしだすだろう? だれもいなかった。そこでYの本家はジンキチに目をつけた。娘をさしだしたらおまえの母の汚名をそそいでやろうとでもいうように。まるで取引をもちかけるみたいに、ジンキチに接近した。勝手に追い出しておいて、とはねつける強さがジンキチにあればよかった。しかし、そうはならなかった。
おばあちゃんはこうして売られた。おばあちゃんはよく耐えた。耐えて、ぼくの母を育てた。ぼくも育てられた。そして、最後には祖父からはなれて(母が協力して引きはなして)、自由の身で死んだ。
ジンキチの死んだあとは、大叔母さん(おばあちゃんの妹)がひとり亘理で暮らした。生涯未婚だったこのひとは、津波で住む場所を失った。おばあちゃんは妹を近くに招いてなかよく暮らそうとしたが、いじわるな祖父が結局のところ自由にさせることを是としなかった。大叔母さんは、おばあちゃんよりもはやく亡くなってしまった。亘理のK家はこうして断絶している。
ションベン臭い家制度のルールにおいてはたしかにKは断絶しているけれども、母はいじわるな祖父の家系の女としてよりもむしろ、やさしかった祖母のひとり娘と自分を位置づけるほうに愛着があるようだ。母にも母なりの、妻としての苦労があったのをみてきたあとで、その機微はすこしだけわかるとおもう。
この前のお葬式のときに、それより先に逝ってしまったもうひとりのおばあちゃんの話をして、あんた宮城に住んだんなら亘理にいってみなさいなと母がおっしゃって、たしかにとおもっておとずれることにしたのだった。むかし話がめっちゃ長くなってしまったな。閑話休題です。
亘理町荒浜は、完全に津波に流されてしまった。いまは片付いてきれいになったけれども、ひとの記憶や線香のにおいのする痕跡はみつけづらかった。ジンキチの墓はどこにある、というくらいのことは聞いてからきてもよかったかも。でもなんとなくセンチメンタルになってしまって、その場で母に電話をかけることはできなかった。
ビーチでは10人前後の男たちが波のうえで点になってサーフィンをたのしんでいた。堤防の背後はいちめん緑地になっていて、ある区画だけがスケートボードパークになっていて、小学生と中学生が遊べるようになっていた。もともとどんな景色をしていたのかはわからなかった。想像の足がかりがなかった。
亘理はまた来るとおもう。きょうはなんだかいろんな痛みで胸いっぱいになってしまって、帰っちゃうことにします。
仙台空港を左手にながめながら北に向かって、ゆりあげ港朝市の近くをとおって、東部復興道路に合流すれば朝きたのとおなじ道についたということ。
東部復興道路はランプを降りたほうがはやいのをおぼえた。なぜなら上の道には信号がたくさんあるけど、下に降りれば信号なく快走できるので。フリーウェイっぽくなっている上の道は、見かけどおりの快走路ではなくて港を行き来する大型トラックのための道なんだとおもう。
仙台港、多賀城、塩釜、利府、松島。午後の松島海岸は観光の車でしっかり渋滞していた。松島観光も一日がかりできてみたいな、ちゃんとみておかないとな、とおもいながら、疲れていたのでわざわざ止まらないで過ぎる。奥松島、野蒜ヶ丘をとおって、無事に近所に着きます。
いちにちの走行距離は180kmで、さいごにガソリンスタンドに寄って満タンにして燃費を計算してみたら、東京の下道をセコセコ走っていたときよりも50%以上改善していておどろいた。東京でのワースト記録はリッター16kmだった。きょうの記録はリッター25kmだった。いまとなってはうれしいことでありながら、東京でバイクに乗るほどつまらないことはないぞという実感を改める。