仙台のライブハウスでロックバンドのコンサートをみた。
打首獄門同好会というスリーピースバンドが主催して、全国各地でゲストをよんで対バンするツアーをやっている。仙台でその相手役をする T.O.C.A というバンドは秋田で結成して秋田で活動している三人組で、打首獄門同好会にとっては後輩の関係でかわいがられているようす。ぼくはなにひとつ了解しないまま、いっしょにいくはずだった友だちがコロナで来られなくなったから代わりにきてみない、なにもわからなくてもいいよ、というのにふらふらとついていった。
ライブハウスは一番町通りのビルの七階にあって、五百人くらいがはいった。もっとおおかったかも。ステージとの距離は近くかんじた。
はじめ T.O.C.A があらわれた。フェンダーのギターが金属質の音をギャンギャンいわせて、ひさしぶりにきく音だとおもった。いい音がしているとおもった。おおきな音がうるさく聞こえなかったのは、いい音だったからだとおもう。とりわけ執着もしないで自然とやさしい脚韻を整えているのが印象的だった。ステージには三人がいておのおのの楽器を演奏しているとき、どこからもしないはずの音が鳴っているようにきこえたのは録音音源かしらとおもったけれど、それもまじえてパフォーマンスを工夫して聞かせた。いいなあ、たのしそうだなあとながめた。
しばらくの幕間でステージにはスクリーンがあらわれて、エプソンのプロジェクターが起動したときのロゴが映された。打首獄門同好会はスクリーンに喜劇的なアニメーションで歌詞を投影するのにあわせて演奏して、もっぱらこちらのバンドを目当てにおとずれた様子のたくさんのお客さんたちは元気よくシュプレヒコールをした。
四十代のバンドは「いい肉食べたい」「ラーメン二郎」「はたらきたくない」「風呂はいって寝て優勝」みたいなインターネットミームを重金属性の音にシャウトしてのせた。ある種の様式を重ねるとそれが創意のようにみえて、なかば自動生成的に繰り返すことができた。退屈しない時間だったけれども、どこか予定調和を突き破れない弱さはちらついてみえた。
みせかけのメッセージ性がなにもないところに熱狂しているのをみるにつけて、メッセージ性がないことそのものがメッセージで、極端に空洞化した資本主義のゲームを音楽がなぞっているようにみえた。音楽は刹那的でパラノイックで、それに熱狂するオーディエンスもそうと気づかずに内向的だった。
なにも問題がなくてハッピーな空間は、問題だらけの生活をいったん括弧にいれてたのしむのをうながすようだった。これが「推し活」の現場で、その流行をメディアが作って好意的に宣伝するのは、変わらない搾り取りの姿とみえた。バンドも客も、どちらもかごのなかにいて息苦しいのをなぐさめあいながら、なぐさめさえも商品としてしか交換できない悲しさをみた。もしそうであればひどいとおもうのは流行に後押しされなければ好きなものを好きにたのしむことさえもできなくなっている心根のことで、その反対にあたりまえにひとがたのしむやりかたを狡猾に一般化する余計なお世話のことだ。
偏狭なことをいってしまったけれども、刹那的なたのしみをたのしんだのは本当のことで、いいライブだったとおもう。誘ってくれた友だちもたのしそうにすごしていて、こうしてひとは元気をえるというところを見届けた。終演後はあちらが油そばやさんに吸いこまれていって、こちらは九時すぎてラーメンは食べられんわとあきらめて、ひとり一番通りをあおば通まであるいて仙石線の終電で帰った。
音楽、軽音楽、ロックバンド、みたいなクリシェから離れて独自の芸をもっているのはたしかなバンドだった。ほかにない色をもって、たくさん活躍すればいい。