スポーツの日のある三連休のはじめの夜に映画館でアニメをみた。
パトレイバーは母と叔父さんが若いころにのめりこんでいたメカアニメだとだけはじめおそわって、やがて映画版は押井守さんが撮っているとおぼえて、おもしろそうな印象だけあって事前知識はもたなかった。地方のイオンシネマでどうしてかかったのかはよくわからない。新作映画をみるよりまずこっちでしょといってでかけていった。公開は1989年。
夕陽がしずむ都会の海をみわたして影の男が塔のうえに立って、一羽のカラスを手懐けている。それが冒頭のショットで、劇伴はドローン音と非西洋の打楽器の不定形なリズムのアンサンブル。続いてタイトルシークエンスに移って、パラシュート降下した人間の軍隊がロボット戦車の攻撃を制圧するテクノロジー戦争をかいまみせる。誰がどうして戦っているのか、得体のしれないメカはいったいなにか、説明をはぶいていきなり劇中にほうりこまれても、描かれる戦いの無言の戦術にはなにか説得力があって、映画のスピード感はいちじるしい。
舞台は世紀末の東京にあって、官民合同の「プロジェクト・バビロン」は首都の海を埋め立ている。それによって二十一世紀の土地問題を恒久解決できると息巻いている。関連工事には大型ロボットの「レイバー」が大量に投入されて土木工事の作業効率を革新している。パイ状の超巨大構造物が洋上に屹立して「方舟」と呼ばれている。この「方舟」が「レイバー」の集中補給基地になっている。
事件は「レイバー」の散発的な暴走事故として提示される。大型ロボットが人間の意志をはなれて暴れて、新宿を、有明を、家屋をなぎはらって暴れる。主人公のチームは警察の特務課にあって、警察ロボットをもって暴走ロボットを取り押さえて無力化して、その背後にある陰謀に目をこらしていく。
ロボットバトルアニメとおもってみはじめて、その先入観を積極的に裏切って、底しれない深さのある映画だった。機械はどこまでいっても人間の拡張にすぎないというドライな技術観、ひとの意志をはなれた台風接近がテクノロジーの破綻を呼び覚ますという自然畏怖の感覚、ひとつの脳が思い描いて実装したコンピュータ犯罪が大量破壊をもたらすという現代的悪のスケーラビリティ。古びない主張をいくつもたずさえて、そのほとんどが現代の技術倫理への問いかけとしてまっすぐに機能している。
映画は熱くて濃い情念を描いているが、センチメンタリズムよりもリアリズムによって危険をしのがせるところが巧みだった。浅いところでは、技術のよしあしを見極める目と手は、下っ端の技術者にもっとも純粋に備わっていること。政治家と経営者は倫理観を欠落させているが、倫理によってほだすよりも実利とのバーターで転がせば転ぶこと。
台風がコンピュータを暴走させるというアクロバティックな技術的因果を証明するためのサスペンスのあと、映画はただちに大立ち回りのアクションになだれこむ。首都圏に超大型台風がおとずれるなか、東京湾に浮かんだ巨大な「方舟」を解体する。台風一過でアクションが済んだら、湿った後日譚もなしに気持ちよく幕が下りる。
最新オペレーティングシステムが実はトロイの木馬で、よかれとおもって国家プロジェクトに導入したら集団感染を引き起こしてたいへんなことになる、というシナリオをインターネット黎明期に説得力のある考証とならべて提出しているのは達見とおもう。技術の商用化がしばしば楽観主義でもって迎えいれられるときに、楽観とも悲観ともせずに、淡々とその脆弱性を指さしてみせるのは誠実なわざだとおもう。
結末におかれた「方舟」の破壊は、ラッダイト式の暴力的反抗にもみえるし、埋め立て反対の環境テロにもみえる。ほかでもない警察が左翼的な大暴れをするのがおもしろくも、それはクリント・イーストウッドとかビートたけしが一匹狼の警官を演じてアンチヒーローであるのとおなじ系譜にありそうにもみえた。
法には止められない悪を止めるのに個人の倫理で戦おうとするのに暴力は必要であるようだ。暴力認可つきの警察はあるいは必要な権力で、彼らのうちにひと握りでも誠実な魂はなければならないとひとは夢みる。
素晴らしい空想科学アニメ映画で、この水準のものがあたらしく作られることはなさそう。空想する自由のある世界では重工業に元気がなくて、肉体のあるロボットに夢を託すことはもうできないような。なんでもありの仮想現実世界のなかで空想のスケールには際限ないようで、環境と人間と機械が手をとってつくる未来の夢は、インターネットの拡散といっしょに飛び散ってしまったのかもしれない。
後発のロボットアニメは、心理世界を濃厚に描くために技術描写のことはいっそあきらめて、人型ロボットがどうして動くかの原理を神秘化した。エヴァンゲリオンの真新しさはまさにそこだったのかも。しかしそのあとインターネットとソフトウェアが世界を席巻して、ますます内向の感覚こそ第一となっているとき、世界におさまらずに存在できない肉体とそれをとりかこむ環境としての世界の関係をていねいに検証して得られる説得力はあるとおもう。