十月最後の週末は東京に出かけて、母と弟ふたりと四人でオアシスのライブに繰り出した。
ツアーの発表とチケットの発売はもう一年前のこと。母から「来年の十月あいてるか」とたずねられた。気が早いようで、あとからきいたら抽選販売がパンクしてたいへんってくらいだったようだから、はじめからいくつもりで席をとってくれたのがファインプレーだった。
四席とったからみんなでいくぞ、とたのしみそうに母はしていた。もともと高校生のぼくがギターの独学をしているのを横でながめてはじめてオアシスを知ったというくらいのはずで、弟たちとバンドの話をしたこともほとんどなかった。きけば、ぼくが友だちにおそわってオアシスを知ったみたいに、弟たちも高校あたりでそれぞれ誰かからおそわってききこんでいて、母はつごう三回にわたって息子におしえられて、つごう十年にわたって息子たちが代わる代わるききこんでいるのを横でみて過ごしていた。それで、誰もみたことのない本物が再結成してやってくるというので、誰よりもはりきって誘ってくれた。ぼくはそのことをこの日まで知らないでいて、でもそうやっていつか出会って好きにならずにいられなかった懐かしい人生の思い出が十万通りあるバンドをみるために、十万人のひとがこの日をたのしみにしていたのだった。
東京は雨だった。吉祥寺のアパートに泊まりの荷物をおかせてもらって、駅前の大戸屋で母とふたりして遅めのお昼を食べてから水道橋へ向かった。ワールドシリーズの初戦でドジャースが大敗したその日に、白人のおじさんがドヤと言わんばかりにブルージェイズの最新の野球帽をかぶって歩いてた。
水道橋は人混みと大雨。改札を出たらすぐ、雨をどうにかやりすごしてドームに進みたい人間の群れと、それをはばんでチケットをゆずってくださいと物乞いをする人間の群れがぶつかって、阿鼻叫喚だ。ドーム周りは排水がわるくて半冠水になって、あちらではサイネージの記念写真を撮りたくて団子状の混雑があって、こちらでは自分のゲートがどこかわからないままひとの波に流されて、傘と傘、肉と肉がぶつかりあって、嘔吐すれすれだった。
ヒラタと連絡をとりながら、グッズ売り場の脇にある喫煙所でやっと落ちあえた。ヒラタは高校の同級生で、文化祭のときにバンドをわいわいやった仲間のひとりで、残りのメンバーのうち半分は地元でやんちゃした話なんかが尋ねなくても聞こえてくるみたいなとき、ヒラタはどこでなにしてるのかよくわかっていなかった。ヒラタからしたらこっちもおなじだったとおもう。大学一年のときに武蔵境のアパートにふらっと遊びにきてくれたのがたぶん最後だった。
もともと明るかったり暗かったりする気分を隠そうとして隠せない正直者だったヒラタは人生の苦さを知ったみたいにひとまわりスケールのおおきい落ち着きをえていて、でも高笑いする笑いかたのトーンはかわっていなくて、十二年くらい会っていないなんて嘘でしょみたいにゲラゲラ話した。靴のなかはヌルヌルにずぶ濡れになっていて最悪の最悪で、ヒラタと会えたのは最高のなかの最高だった。宮城にいるから通るとき呼んでなといったら、また東京くるときも呼んでなといってくれた。
日が暮れて弟たちとこの辺で集合するからといって、ドームの後楽園駅のがわの端っこの細い屋根のへりのしたで待って落ちあったら、チケットをわけて四人で並んではいった。階段を降りて、また降りて、廊下をあるいたらスタジアムがぎっしり詰まっていかにもボルテージがあがっていそうな景色が蛍光灯の通路の向こうにみえた。どこを歩いているのかわからないで歩いていたけど、アリーナにはいったらそこは外野フィールドで、いま通りすぎた扉はリリーフカーがはいってくるときにひらくフェンスのところだとわかった。祝祭ムードにいきなりあてられて、わくわくしながらなんとなく景色をながめて、写真を撮りながら座席をさがした。
Dブロック1列といって、フェンスで仕切られたセクションのうち最前列の席だった。そこに四人ならんで腰掛けて、兄弟の上の三人がそろって出かけるのなんて、それこそ二十年ぶりかというくらいで、母はおまえらの写真を撮らせろといって、それからステージの正面のところまでノコノコあるいていって、四人ならんでめずらしい家族の写真をうつしてもらった。元気でいることが親孝行とおもう以上に、弟たちがたよりになるのが心強くて、ぼく自身が助けてもらっていると感じた。とはいえ、田舎もんの男の世界のことで、そういう通俗的な感傷を口に出しては言わない。アジアンカンフージェネレーションが前座で演奏して、三十年前にも前座で出してもらって、再結成の特別な日にまた呼んでもらえるまで音楽をやってきてよかったと語るのを聞いた。そのあと、本番がはじまるまでフジロックの話、昔みたバンドの話、メジャーリーガーの話をして待った。
ライブの本編は、期待していたよりもずっと心にぐっと深く刺さった。単に話題のイベントにきたという以上に、まだぼくが若かったころの記憶のすっかり忘れていたディテールがこみあげてせまってきた。休み時間ごとに廊下かトイレにいけばみんながいて、皮肉と文句ばかりいっていてもみんなが仲良しなことは当たり前のことで、怠惰で生意気なエネルギーを持て余して、どうでもいいことで高笑いしていた。もういちどあのときに戻れたらとおもってこんなに昔のことを思い出すのははじめてのことかもしれない。しかもそれはもうなくしたものを嘆くようにおもいだすのではなくて、怠惰な不満足をくすぶらせていた時間が豊かに光っていることをはじめて発見して、そのときみんなが聴いていた思い出のバンドが目の前にいることよりも、みんなでそれを聴いていたというやわらかい思い出の広大な共生感にぼくは圧倒されていた。
ほとんどの曲の詩を耳と口がおぼえていて、曲名をすぐに思い出せなくておろおろしていても、歌いだしになると英語が口をついて飛び出してきた。タイトルをすぐに思い出せるいくつかのお気にいりの曲はここぞと一緒に歌ってあげようとしたとき、それをおぼえたころにはかならずしも注意をはらっていなかった詩の中身のほうがにわかに前景化してせまってきて、混じり気のない陽性のエネルギーの塊に打たれて目から水が出ることもあった。曲がりようもなく一貫しているのは、やさしげによりそうふりもしないで、勝手に生きろ! といい切れる自己愛の強さだった。勝手に生きろ、バカタレ! とほかのだれでもない自分に向かっていうとき、自分に向けていうのにわざわざ憎しみも愛も込めはしない。それとおなじ無関心さで、だるい甘さも苦さも演出しないで、おれの勝手! といって堂々とするのにみんなが憧れていた。
ステージの脇のスクリーンにギターを弾く姿が映ると、半年前にはじめて楽器にさわりましたみたいなさえない猫背で、なんのひねりもない高校生級のフレーズを弾いてひょうひょうとしているのが、いかにもおれの勝手! としていた。下手かどうかはお前らじゃなくておれが決めるハナシで、おれが自分のできることをやりきったら下手なわけない。どこにもないゴールを追いかけて勝手に苦しまないで、自分にできることをして満足する。ステージ上の人間たちは単純さを反復しているだけだ。そのあっけらかんの態度がすばらしいとぼくはおもった。
終演のあと、水道橋のまわりのお店はどこも大混雑になって、もう閉店を待つだけというところもおおかった。ぼくと家族は新宿までいちど移動して、東南口のダンダダン酒場は深夜までやっているからといってぼくがそこまで連れていった。基本はだれも飲まない家族がおのおの生ビールとかレモンサワーとかハイボールとかをどかすかたのんで景気がよかった。パクチーもりもりのサラダがみんなのお気に入りになって、それをおかわりしながら餃子を何枚も食べて帰った。