中学校で「真言宗をひらいたのは誰でしょう」といって暗記した以上のことをなにも知らずにこの日まで過ごしてきたあと、空海の伝記と思想をごくわかりやすくあらわした入門書を読む。
密教ってなんだろう? とやさしげな序章はかわいらしいイラストをともなっている。見開きの四分の一にだけテキストがあって、残りのスペースは漫画で概念をおしえる。で、密教とは「自分のなかにほとけがいる、そのことに気づいたときに信仰がはじまる」とするものなのだとおしえる。秘密のサークルで構成員たちがあやしげな企みを発酵させるからこその密教、というのではなさそうだ。
やさしい本とおもって図書館からこれを借りてきた。ひとつには、来年の大型連休に京都市交響楽団の演奏会を聴きに京都にいこうと計画して、そのついでに紀伊半島をはじめてめぐってみようかしらとおもったときに、高野山というのがどうもあるらしいとおそわってのこと。高野山というのも空海さんというのも固有名詞はわかっていて、かならずしも頭のなかで結びついてはいなかった。これは単に不勉強によるもの。で、旅行まで半年あるうちにすこしでも予習しておこうと。
もうひとつ、これも不勉強によるものとして、顕教密教といって対をなしていそうなとき、どちらがどちらでなにがなにだかわからない。去年、国立博物館で法然ゆかりの展示をみた。坐禅を体験して道元の伝記を読んだりもした。平安時代が終わろうとする末法のとき、ひとは念仏とか坐禅にすがって救いを得たがった。そう形式的におぼえている。誰でも救われることができるというのはすぐれた考えとおもうとき、それより先の旧仏教、すなわち空海の思想をそのなかにふくむ平安以前の仏教は、顕に密といいあうだけあって、いくぶん狭量だったか? そういう先入観は、どうやらあったようだ。
それら不勉強をなおすための読書にうってつけだった。密教が秘密といって指差すものは、わたしのなかにほとけがいるということ。ただし、そのことはあまりにも深遠でわからない。わからないことがわかると直観し、わたしのなかにはほとけがいると肯定しきる勇気をもてたときに、信仰がはじまる。それは肯定からはじまる。くよくよ迷うことは、おそらく我執となる。
小乗仏教と大乗仏教。小乗はスリランカから東南アジアに広まった。大乗は中央アジア、チベットから中国と朝鮮をとおって日本で摂取された。さても、密教は大乗仏教をただしく止揚して、衆生を救うための修行を経てほとけになることを目指す前に、そもそもわたしのなかにほとけがいたと気づくのだった。
その密教のことを「仏教の最終形態」といい切っている。まあ、イラストのおおい入門書のことではある。それにしても、仏教はすでに完成をみました、それを完成させたのは空海さんでした、といきなり言い切る勇気はどうも生半可には出せないもののよう。たぶんに神秘的なレトリックのなかに真実はふくまれていると信じながらなお読む価値はあるとおもう。
空海こそ密教を完成させた。これはもとより二系統あった密教の流派を空海が統合したということ。インドから仏典が唐に輸入されて漢訳された。世界帝国の唐にあって、恵果は皇帝三代の帰依を受けたもっとも正統の僧だった。空海は二十年の旅程で唐に留学した。長安にはいり、半年後に恵果をおとずれた。恵果はひとめみるなり、空海のほとけをすでにやどしていることを知った。三ヶ月で伝法灌頂、空海は阿闍梨となった。二十年の留学は、一年で目的を果たした。
唐でもっともすぐれた僧をおとずれたときにはすでに悟りを完成させていて、留学生でありながらただちに正統後継者となった、というのは、伝説的な語りかたとしてはなはだおもしろみがある。悟りがいったいなんのことか知ることのできていない身からすればさながら、大谷選手がアメリカ野球で歴史的な活躍をする、というのとおなじくらいふわりとした俗流のもののみかたをしていそうではあるけれども。
しかし、漢訳仏典を契機にサンスクリット語も問題にしないで水のように研究しては飲みこんでいく語学力があって、わたしのなかにほとけがいた、とすれば単純にせよ、歴史的経緯から二系統にわかれていた思想のことをひとつに統合するとなれば、それはおおいに抽象的な大事業であるに違いない。その統合を空海は達成した。
空海が日本史上最大の天才だったというのはたぶん、大言とはならないようだ。学問がおおかれすくなかれ宗教的神秘を含んでいたときに頭のよさというのを言うのがどれくらいふさわしいかはわからないけれども。帰朝したあと、寺の造成に経営はもとよりいまでいうダム建設の国家事業なんかもまかされてうまくやったというのは、低いところから見上げるようにして、ああ頭のいいひとだったのだな、とあおぎみるよりない。
ぽっと出の尊師は教えをひろめてはならぬということはないけれども、それにしても空海はちょっと、レベルの違う人物である気がする。まったく知らないでいたことがいまではものはずかしくおもわれる。おもうに悪僧のようなものが跋扈するにつれ国民的信仰はスライドしていくのだろうし、それはただしいありさまに違いないけれども、それですべてが単にしりぞけられたとするにはもったいない深遠さがみえる。しかし語ろうとすればするほど、語るに落ちて無知をあらわすようでもある。
たんに「わたしのなかにほとけがいた」とすれば、それはありがたいことに違いはない。ただしそれは到達点ではなくて入口に過ぎないようだ。その入口にまで運ぶ役割を果たして、このイラストいりの本はすばらしい入門書に違いなかった。イラストがおおいとはいっても、イラストを補足して歴史的、宗教学的事実の注釈も大量にほどこされていて、きちんと読めばふつうの本を読むのとおなじくらいの重厚さもあった。
最終部には四国八十八ヶ所、平城京、室生、平安京、高野山のそれぞれを旅行するならここはぜひみてほしい、と観光ガイドも含んである。ひとつも知らない歴史的土地のことを写真でも映像でもなくテキストと挿絵で案内されるのは、読むだけで旅したうえ、空海にあやかった気分になるのが清々しい。もっとも、それは単に西日本に縁がないのがそうおもわせているだけかもしれない。